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【アートエッセイ/セザンヌ】『The Boat, Lake Annecy』

遠のく夏。
湖畔を歩く男女。
行楽に来ているのだろうか。二人は近くのボートに乗ろうとしているように見える。湖面には周囲の山々が映り込み、少し先に行くとパラソルが立っている。
・・・それらの消え入りそうな描写は、だんだんと遠のいてゆく記憶のように思える。

近づく秋。
仄かな風と、秋特有の清潔で乾いた空気。
水彩のくすんだ色味は、時は刻一刻と秋へ移り変わっているのだと教えてくれているようだ。

『The Boat, Lake Annecy』(1896年)
セザンヌ晩年の作品である。
余白が多い上に素描もどこか頼りなげで、人も風景も何一つとしてはっきりと描かれていない、掴みどころのない絵。しかし、ここには確かに仄かな風がある。
ほとんど確信してそう思った。
この場所では、秋が色付いてきているのだと。


それにしても、絵の中の風を”私が”感じるとは不思議なことだ。
例えば、ゴッホの絵の中にも風はある。
それどころかセザンヌーこの人は静止画を描くのが好きだーのそれとは比べ物にならないくらいダイナミックな風が渦巻いている。でも、私とは交わらない。
それはここではないどこかで吹いている風であって、当たり前だけれど私がそれを今、ありありと感ずることはできない。普通はそうだと思う。
でも、セザンヌの風は違った。
それは時代も国境も越え、圧倒的な本質を持ってこの絵に存在している。
“固有”なものより”共通”のものを描きたい質だったのだろう。そこがセザンヌの稀有な強みであると同時に、生前に評論家から、職人的でおもしろみに欠ける画家のように扱われた理由の一つだったのかもしれない。
その一方で、面白いことにセザンヌの描く”共通”は、でもだからこそ、観ている私の”固有”を炙り出すのだ。


その風と共に蘇る私的な記憶たち。
時が、季節が、移ろいつつあるのだと感じたあの一瞬。
日差しは眩しくとも、風は明らかに夏のそれとは違う硬い冷たさを帯びてきているだとか、夕方ヒグラシの鳴き声にまじり、ほんの一瞬だけ香った金木犀の匂いだとか。

溶けゆく夏に、秋の気配が交わるあの一瞬の気持ちを思い出した。

✴︎

セザンヌは30代の頃、モネやルノワールと共に印象派としてパリで活動していたが、後に制作拠点を故郷の南仏へと移し、それ以降は『伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探究した』そうだ。
印象派を抜けたのは『対象物の確固とした存在感が等閑にされがちな印象派の手法に不満を感じた』からだという。
セザンヌらしいなと思った。
だって革新的な職人は、きっと独立して自分の工房を持つだろうから。

ところで展示会の解説によると、この絵の余白は”unfinish”と呼ばれるセザンヌ絵画の基盤を成す技法らしい。
きっとセザンヌは、対象物を『確固とした存在』にするためにあえて余白をつくったに違いない。

そこに炙り出されるのは、見えないけれど確かに存在しているはずの何か。
あるはずの物や風景。そしてもちろん、観ている私自身の記憶や感情さえも。

つまり、この絵を”finish”させるのはいつでも観者側なのだということ。
時代も国境も越えた『対象物の確固とした存在感』は個人へと帰結し、もう絶対に確立されないはずがないのだ。

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