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映画「ゴジラ-1.0」感想 自利と利他が統合する世界

こんにちは。映画を観ると大体泣いているおかゆです。
普段は"トリセツ"を言語化して勇気のお守りを渡すコーチングをしています。

近頃は映画で気になる作品が多く、首、翔んで埼玉、ゲゲゲの鬼太郎、どれをみようかなぁ…と迷っていたのですが。

それよりも前から気になっていた
「ゴジラ-1.0」
を鑑賞してきました。

大ヒットおめでとうございます。

知人が「2回観に行った!」と熱く語る口コミから
いかねば、いや、行きたい!と想い行って参りました。

鑑賞後の浸り感が凄まじいです。感じたこと、そこからのメタ認知をまとめていきます。
ネタバレを多用に含みますので、その点ご了承ください。


ゴジラ-1.0をみて湧いてきた言葉

映画鑑賞中に感動したことがたくさんあり、それらのキーワードをあげてみます。

➀Fi⇔Feの交錯
➁自利と利他の統合
➂戦後日本の様相
④ゴジラの誕生理由は?
⑤撮影技術が凄い
➅ハッピーエンドだけではないリアル
⑦人は他者を介在して自己を認識する
⑧自分の戦争が終わっていない
⑨生きる許可
⑩戦争のない世界では戦闘映画は生まれない
⑪ゴジラのメロディは何を表現するのか
⑫人は個ではなく集団で大業を成し遂げる
⑬人は補い合う
⑭メタファーが刺さる

いつもいつも
「この劇場の中でこのシーンで泣いてるの私だけだろうな」
「こんなこと考えてるの私だけだろうな」
と想いながら映画を観た後にひたひたひたにひたっております。

「そんなことないよ、これは大衆も感じているよ!」

という部分があればぜひコメントいただけたら嬉しいです。

それでは、これらをそれぞれ語っていきます。

ゴジラはなぜ生まれたのか

ゴジラは何者なのか

映画を観ながらずっと考えていたこと。

「ゴジラは、なぜ生まれたのだろう?」
「ゴジラは、何故破壊を尽くすのだろう?」

以前調べた情報だと

・生命機構的に核エネルギーが必要なためそれを求めに来る
・核を生み出した人間に復讐しに来る

といった内容を見たことがありました。

今回も人に嚙みついては投げ飛ばしたり
船を攻撃したり投げ飛ばしたり
電車を投げ飛ばしたり
熱光線を飛ばしてきたりと

「ゴジラさん、マジで何をエネルギーにして動いてるの…!?」

と疑問が頭を離れませんでした。
あとは、人を補食したり、建物を咀嚼している様子はなかったので、食事ではないのだな、と。(進撃の巨人で得た視点)

船や金属に反応しているというよりは、やはり人を敵として認識しているようなので、そのあたりも含めて深ぼってみます。

ゴジラはどのようにして誕生したのか

ゴジラは、実写映画で換算すると現在まで34作品が製作されています。
(2023.12.30時点、アニメ除く)

ゴジラの誕生理由は、各作品によって設定が異なるそうです。
ここでは第一作について触れてみます。

1954年公開の第1作『ゴジラ』では、作中に登場する古生物学者の山根恭平博士が「ジュラ紀から白亜紀にかけて生息していた海棲爬虫類から陸上獣類に進化しようとする中間型の生物[注釈 4]の末裔が、ビキニ環礁水素爆弾実験で安住の土地を追われ、出現したのではないのか」と説明する[20]。しかし、以後の作品の多くでは「ビキニ環礁の水爆実験で飛散した放射能を浴びて変貌した」と説明される。

wikipediaより

ざっくりとまとめると「約1億4000万年前の恐竜が深海で生き延びており、ビキニ環礁の水爆実験により目覚め、出現した」といった理由が主旨のようです。

ゴジラが熱光線を放てるのは、水爆実験により水爆エネルギーを全身に充満させたことで巨大怪獣になったため、という話も。「ゴジラ」のポスターには「水爆大怪獣」と銘打たれており、この歴史的事実を強調した存在として扱われていました。

第一作の後も、様々なゴジラシリーズが誕生しますが
「環境破壊」「戦争で亡くなった人間の怨念」
と歴史事実や時代背景が反映された誕生理由になっているようです。

ゴジラは「人間が生み出した脅威の象徴」であるように感じます。

怒りを感じる、ゴジラ作品。

ゴジラのエネルギー源

ゴジラはなにをエネルギー源にして生きているのか?もし生命体を捕食するのであれば、あんなに人間が近くにいたのに食べないのが不可思議だと感じました。ゴジラがあの巨体を維持するためには、補食というエネルギー摂取は効率が悪そうです。

~脳内メモ~
古代の恐竜で例えると…大型の草食恐竜は、一日に体重の約2%に相当する植物質を摂取する必要があったと推測されています。60トンのブラキオサウルスであれば、一日に約1.2トンの食物を摂取していた、とすると…うん、深海に住んでいるし、それはなさそうです。ゴジラのあの破壊的行動から、草食にも見えないですしね…。肉食恐竜と比較してもなかなか難しそう。巨大生物は生き残り戦略がとりにくそうである。
~脳内メモ終わり~

ゴジラは恐らく、核をエネルギー源としています。作中で放射能検出の話があがったように、ゴジラ自体が放射能を発生している描写があったことから、誕生に核実験が関連していることが仄めかされています。とすると、核融合のために水素が必要となるので、水素を求めて原子力の実験所へ…

んん??
作中で大戸島にゴジラが出現したのは1945年だった記憶。そして1947年に再度出現し銀座を襲う。

あ、その間に1946年のクロスロード作戦による水爆実験が…!ここで巨大化したのか…!

つまりは、ゴジラが大戸島の人を襲ったのは
「縄張りを荒らされていると感じた」からで

東京湾から銀座に襲来したのは
「水爆実験によって変貌させられたことによる復讐」ということか!!

世間一般的な「水爆怪獣」のゴジラの前に出現しているゴジラから始まる、だから「-1.0」なのか…!?(わからぬ)

話を戻すと、大戸島出現時はわかりませんが、1946年以降の水爆大怪獣であるゴジラは、核反応によってエネルギーを摂取していると思われます。元素自体をどこから取り入れているかはわかりません。

このままいくと数時間溶けそうなので、今回はここまでの考察にしておきます。

戦後と今の違い

文化的、経済的な違いについても深く感じとれる描写が多くありました。

思い出せる部分を列挙します。

・ご近所さんの子どもを預ける
・3000円は大金
・親に敬語
・戦後の貴重な食料
・「アメリカの粉ミルク」物資はアメリカから
・家を建てることが一人前
・女性主体の家事育児、お酌

今の時代は「個性の尊重」と言われますが、戦時中・戦後の「個の幸せよりも集団(国)としての幸せ」という雰囲気が伝わってくるようでした。戦時中というのもあったかと思われます。

特に印象的だったのが、お隣に子どもを預けるという風習。
確かに昔の日本であれば実際にあったのではないかと。

今は核家族化が進んだことで、幼稚園や育児代行などなにかしらのサービスを使うことで補っていますよね。

「労働力のシェアだ…」

と思いながら一連のシーンを眺めていました。経験のある人にお願いをする。子供の成長を祈ることが自分事になり、ぶつかり合っていた関係性が緩和し、助け合う。

シェアは、自分事化を強化する
というのを最近認識したので、まさにこういうことだな、とメタ認知していました。

自利と利他の統合

FiとFeが交錯していた

仕事柄、自然と心理学的な観点から「ゴジラ-1.0」を見てしまい、ずっと

「Fi(内向感情)とFe(外向感情)が交錯している…!」

と思っていました。

知らない方からすると、なんのこっちゃですね…笑

FiとFeは、心理学者ユングが提唱した理論に基づいた性格検査「MBTI」に関連する心理機能です。つまりは心理学の専門用語です。

Fiは内向感情。わかりやすいキーワードは「自己感情」「信念」
Feは外向感情。わかりやすいキーワードは「他者感情」「貢献」

この場においてMBTIを用いた説明をすると齟齬が起きそうなので、別の言葉に置き換えて説明していきます。

自利、利他、という言葉を使いたいと思います。

自利と利他

自利的行動を「自分のために行うこと」
利他的行動を「他者のために行うこと」
と定義してお話していきます。

作中での発言にもあったように、浩一は
「俺の戦争が終わってない」
と語っていました。

彼の戦争の始まりはどこか?
本作で触れられている部分にフォーカスするのであれば、日本軍に徴兵された時からだと考えました。

日本軍という国の力を持つ大いなる存在や近所の人間を含めた"世間"からは
「特攻してお国のために命を使え」と使命を課せられ

それと同時に母からの手紙にもあったように
「生きて帰って」
と望まれました。

生と死。家族と国。

自分の為に生きる、自利
他者の為に生きる、利他
他者の為に死ぬ、利他

彼はなんのために生死を選択するのか、自利と利他の境界がわからなくなり、心中で葛藤が渦巻いていたと思います。

人は本来、利他的な生き物です。
当時の時代的背景を鑑みると「恐怖を感じやすい性格」であったとしても、国の為に特攻を行う、というのはできてしまう環境だったように思います。利他的に命を使えてしまう。

国としてそういった空気だったにも関わらず、家族には「生きて帰って」と望まれたことで、浩一はわからなくなったのだと思います。

赤ん坊のアキコを見捨なかったこと、押しかけてきた典子を追い出さずに一緒に過ごしていたことから、彼は本来「人情」や「道理」を理解しており、真面目な人間であったように感じました。どの約束を守るかどうかで、ゴジラによって死した整備士たちに心を痛めているようにも見えました。

生きる許可

本作の中では
「生きろ」
この言葉がとても印象的に使われていたように思います。

浩一の「生きたい」「死んだ方がいいのではないか」という生死に関する葛藤を私なりの視点でまとめてみました。(左側)

「生きて帰って」と生きることを望まれて帰還したのに
それを望んでくれた両親は亡くなっており、しかも隣人になじられる。

大戸島での整備士たちの屍を超えて本土に戻ったのに
自分は戦果も挙げず、人の命の上で生き永らえている。

俺は何もしていない。

その終わらない戦争の中に彼はいたように思います。

爆弾回収(名前忘れました)の仕事に対して典子が「死んではだめです」「生きなきゃ」という時も、危険を冒してでも利他的行動をとることで精神のバランスを保っているように感じました。もちろん、死ぬと決まっている仕事ではなかったのもあるかもしれませんが。

一度は典子とアキコとの生活によって幸せになることを望みましたが
ゴジラの銀座襲来において典子が亡くなったとされ
自分が幸せになりたいと望んだせいだ、と
彼にはもう自分で自分に「生きる許可」をできなくなっていました。

「死ぬ許可」だったら、誰に求めればいいのか。

橘を必死で探したのは、橘のためというよりは、自分の戦争を終わらせるためであったように感じました。橘を「死なせてしまった整備士たちの象徴」として捉えており、彼に許しを請うことで「死ぬ許可」をもらっていた。

けれど、橘は「生きろ」と浩一に託しました。

そうして浩一は脱出装置によって生還し
電報を通じて典子の安否を知り、再会を果たしました。

これによって、彼は
他者から生きる許可、生きることを願われ→期待
自分でも生きる許可、大業を成し遂げた→期待に応えた自己肯定・自己効力

に至ったのだと感じました。

自己肯定は、自分はそのままでも良いと受け止められること
自己効力は、何かを成し遂げられる力
という意味合いで使っています。

他者に「そのままでもいいよ」と肯定してもらうことも大事なのですが、他者の言葉のみでなく、自分の行動によって現実を変えていく、その過程があればこそ、自己肯定感と自己効力感を満たすことに繋がったように感じました。

自利と利他が統合する瞬間

話を戻して、橘が浩一を生かそうと思ったきっかけ。

学者と呼ばれた野田さんが作戦前に語った
「この国は命を軽く扱い過ぎた」
「誰一人死なない作戦にしましょう」
この言葉がトリガーになっていたように思います。

橘自身は、浩一を非常に恨んでいたことでしょう。
その深層心理では
「整備兵の仲間たちを生きて本土に返してやりたかった」のだと思います。

1945年に大戸島で橘と浩一が会話していたシーンでは
「あんたみたいな人がいてもいいんじゃないかと思いますよ」
と、特攻に行かない浩一を責めずに励ますような言葉をかけていました。

本来彼は、仲間想いで情が深い人なのだと感じます。

その本質的な部分が、飛行艇の整備を行う日々の時間や、作戦にかける仲間の想いによって、利他的な行動に変わりました。

恨みを晴らしたい「自利」から
他者を生かしたい「利他」になり
他者が生きて帰ってくることも「自利」
である。

浩一の例でいえば
生還をする「自利・利他」から
他者のために命を使うという行き過ぎた「利他」
自分が生きたいと願う「自利」・アキコや典子の為に生きる「利他」

これらが最後には統合していたように感じます。

人は他者を介在して自己を認識する

海上で新生丸とゴジラで戦った時
野田さんが水島に指示した

「回せ回せ!!!!」

銀座の街で浩一が典子に叫んだ

「走れ!!」

(だった気がします)

橘が浩一に託した

「生きろ」

現実世界の危機的状況や、自分の内面世界に飲みこまれている時は、とにかくシンプルに、他者の言葉によって目覚める。

そう感じる瞬間がたくさんありました。

私は仕事でコーチングをしているのですが
自分の言葉だけではなく他者を通じて自分を知ることによって
自己認識が高まり
勇気をもらうのではないかと、感じることがあります。

自分が紙に書いて思考を整理する、宣言するのも一定の効果はあると思いますが、人は自分一人で平静さを保つのは困難であり、だからこそ他者と力を合わせることで力を発揮できるのだと、実感しました。

本作においても、他者の言葉で浩一が奮い立つのを感じました。

他者は自分の鏡である。

反復表現がささる

最後に、印象的だったシーンを一つ。

隣人の澄子さんの行動です。

初登場時は、浩一に対し
「特攻にいったのになぜ帰ってきた」
となじり、手ぬぐい(タオル?)で彼を何度もはたきました。

(めっちゃいやなやつ出てきた…
と思ったのですが、物凄く人情のある方でしたね)

そして最後は下船した浩一に駆け寄り
複雑な表情を浮かべて電報を叩きつけます。
ぶっきらぼうながらも、そこには喜びの感情を感じました。

本来は「叩く」という行為は相手を傷つけるように見えますが
最後には背中を押すようなニュアンスに感じました。

近しい動作でも全く意味合いが異なるシーン。
とても感動しました。

意図的だったかわからないけれど、リフレイン刺さる。

ハッピーエンドだけではないリアル

全ての戦いがきれいに終わったかのように見えて、最後には沈みゆくゴジラが復活するような描写がありました。

これは、ゴジラが誕生した経緯が、1946年のクロスロード作戦のみでなく、それまでの歴史も絡んだ複雑なものであることを象徴しているように受け取りました。

今回はこれでひと段落はついたけれど、世界で兵器が消え去ったわけではないし、根本的な問題がなくなったわけではない。

そのメタファーのように思いました。

あとは、ゴジラという存在時代が生命力が凄まじいことの表れでもありそうですよね。

戦争のない世界では戦争映画は生まれない

相模湾でのシーンを見ながら

「戦争のない世界では戦争映画はきっと、生まれないな」

とぼんやり思っていました。
当たり前ではあるのですが…

何を言いたいかというと、
世が平和であれば、平和な作品が生まれ、戦闘には関係のない業種が繁栄する

世が戦乱であれば、戦争事業や兵器事業が儲かるし、そのメッセージを伝える創作も増えるかもしれません。

今、日本では戦争は起きていませんが、第二次世界大戦から戦後78年が経ち、近々戦争を経験した世代がいなくなる時代がきます。

平和であることは素晴らしいですが、他国でも戦争が起きている昨今、日本にも何が起きるかわからないですし、またなにか未知のものが流行るかもしれませんし、相模湾から謎の生命体が上陸することもあるかもしれません。

そして、現代でも「自分の戦争が終わっていない」人はいるのだと思います。それは水面下で、無意識のうちに自らを蝕んでいる。

大事なのは
今の生き方に自分が納得していること
そして
他者を思い遣ること

であると、この「ゴジラ-1.0」という作品から受け取りました。

歴史に学び、悲劇を繰り返さない。
歴史の一部として戦争を知り、後世に活かす、というのは今を生きる我々にとって必要なことであるし、自分事にする必要があることだと思いました。

最後に

「ゴジラを知ることは歴史を知ること」
だと思いました。
ぜひ興味が湧いた方、調べてみてください。

不謹慎ですが、ゴジラが浮いてくるシーンが浮き輪みたいで

「ゴジラかわいいな…」

と思ってしまいました。

あなたはどのシーンが印象に残りましたか?

それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。
またお会いしましょう。


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