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自分ではない瞳で、世界を見てみたい。

多くの人と接する中で、(ああ、この人の世界はどんな風に映っているのだろう)と思うことが多々ある。

時に世界はやさしく温かいものであるかもしれない。もしくは鉄のようにひんやりと冷たく厳しいものであるかもしれない。

モノクロの映画を観ているようだ、と表現する人もいれば、ビビットに映っていると表現する人もいる。

私のいま生きている世界は、果たしてどうなのだろう。

わたしの生きる世界は、うるさい。

外に出掛けるとき、家の玄関の戸を開ける前に私はイヤホンをする。ポケットの中に、充電が切れた時用の予備のイヤホンがちゃんと入っているか、確認する。

その時の気分でプレイリストを選択して、シャッフル再生。それから誰かと会うそのときまで、私は常にイヤホンをしている。

恋人とのデートの移動で電車に乗る時でさえ、許可をもらってイヤホンをしていた時があった。別にイヤホンをしないと、パニックになるとかではない。

だけど、身体がかちかちになる感じがするから好きではない。

それもこれも、昔から私にとって外はうるさくて仕方がない。私が家を好きすぎるのもあるのだろうが、外と人がそもそも苦手で、私にとって世界は、あまりに情報が多すぎだ。

人見知りが一年くらい取れない。

「私は外も人も、苦手なんだよね」「人見知りだから」
こんなことを言うと、いつも驚かれる。

驚かれるならまだいいが、信じてもらえないことの方が多いかもしれない。それほど、私はアクティブで人と関わっている印象を持たれているのだと思う。

コミュニケーション能力が異常に高すぎることもあるのだとおもう。やや高いレベルでなく、もうとんでもびっくり高いのだ。これはマジ。

それで、「人が好きなんだね」これもよく言われる言葉。

私の中には人の好き嫌いがはっきりとあること、これを伝えるとこれまた驚かれるのだけど、それは誰に対しても態度を変えないからだろう。

でも自分の好き嫌いで、態度を変える必要ってあるだろうか。

もちろんはっきりと言わなきゃいけない場面はあるけど、それ以外のシーンでわざわざ好きと嫌いを表明するのは今の私には賢明に思えない。

もし私が外も、人も好きだったら、人に会うまでの時間をイヤホンでシャットアウトする必要だってない気がする。私は外の音が、おおよその場合、好きじゃない。特に都会の外の喧騒は、もう嫌なのだ。

色のついた世界を生きること、人の痛みが分かること。

私は大人になってから知ったのだけど、共感覚というものを持っているらしい。らしいと言うのは、そもそもみんな持っているものだと信じていたからだ。

共感覚にも色々あるみたいなのだが、私が持っているのは「色」と「ミラータッチ」の共感覚。

匂いの共感覚を持つ人には仕事関係で8人くらい出会ったのだが(デザイナーや芸術家や音楽家が多い)、
同じように「色」が見える人「ミラータッチ」を持つ人にはまだ出会ったことがない。

私には、目に見えるすべての物質(物や人や建物や街、数字など)と音(声、音楽にも)に色が付いて見える。

あまりないけど、他人が目の前でぶたれたとき、同じような感覚が身体に起き、疼痛を感じたりする。これがミラータッチと言われるらしい。

小さな頃から、ニュースや走っていく救急車が見れなかった。戦争資料館などで具合が悪くなり、気を失ったりするような子どもだった。

どうしてみんなは平気なのかずっと不思議で、自分はなんて弱いのだろうとおもっていたりもした。

色については、具体的には、その人自身の色と、声に乗っている色が見えていたりする。

言葉を与えるなら、特性、感情、思想、嗜癖、悩み、色々なものが別々の色で見えることもあれば一色の人がいたりもする。これはかなり珍しいタイプだとおもう。

それでその声に乗っている色が、その人から発されている色とちがう時に、人間がどれほど、自分の意識とかけ離れた言葉を放っているのか分かってしまうこともある。

幼い頃このことは、とても怖かった。

数字を記憶するのもかなり苦手だったりする。これは数字の持つ色が似ていることで混乱するかららしい。

例えば、「2」はオレンジで、「8」は山吹色だとする。こういう比較的、近い色が並んでしまうともう覚えられないのだ。

覚えられないことはないけど、疲れてくると、分からなくなってくる。幼い頃、まだ数字も知らないときに色で見てきたので混乱してしまう。

基本的に色で見る方が私は楽だから、そうしてしまう。疲れるとべったりとオレンジとイエローが見えて、この数字なんだっけ?どれだったっけ?とおもう。

私の世界は要するに、覚えることがとんでもなくある。そして、世界は結構うるさい。

こうやって説明したら理解されることもあるのだけど、いちいち説明していられないのでただ抜けてる人だと思われているとおもう……いや、実際抜けているひとなのかな…(笑)

このように目から入ってくる情報だけでもいっぱいいっぱいなのに、街の全ての音からまた情報が入ってくると疲れてしまうのも無理はない。

人ひとりと話すにしても、やはり疲れてしまう。

これが原因で私は、外も人も苦手なのだとおもった。ひとりで居ること、静かな空間が落ち着くのはこのためなのだろう。

イヤホンから流れる音楽と自分の声。

イヤホンを付けて大抵は、音楽を聴いている。時々、自分の声を聴いていたりもする。これにも驚かれる。いや、驚かれてばっかりか!

私は人前で話すのが、上手だとおもう。緊張しているように見られないことも得意で、後から「緊張した~!」というと驚かれて、逆に私が驚いていたりの連続だ。

だけど、緊張しないわけではない。

緊張はとってもするのだが、それも含めて人前に立つのが小さなころから好きだった。昔は随分と目立ちたがりだったのだなと振り返って思う。

それで、自分の話のテンポや息遣い、声のトーン、内容、それらが気になってしょうがなかった。話しているときは、渦中だから自分では聞くことができない。

今はもう減ったけど、小さなころからいかに人に(人の放つ色に)影響を与えることができるのかばかりに集中していたので(なんかこわい子どもだ)いつも寝る前に翌日話す内容を決めて、寝れるまで喋ってみてたのだ。

大体の話にはオチがあるので、それまでうまく話せるかどうかを録音して聞いているのが小さな頃からの習慣で、大人になってからも自分の声を聴き続けている。

え、ちょっと、変な努力家だな(笑)、書いてて笑ってしまった。

私は人を楽しませるのも、人と笑い合うのも好きだ。それは結果的に自分が満たされるからだけど、でも目の前の人が楽しそうにしているのは気持ちがいいものでしょう。

共感覚をあそぶ。

共感覚の話に戻るが、私の持つこの感覚があまりにおもしろいから、と、友達の前で
・その人がどんな人で
・どんな悩みがあって
・今何を考えているのか

この三つを初対面の人の自己紹介する声だけ聴いて当てるというゲームも今まで何度もしてきたのだけど、当たりすぎてみんながドン引きしていたので、もうやっていない。

ちなみに大人になっていくうちに、共感覚をコントロールする力を身に付けるので、今は疲れている時か「見るぞ!」みたいに思わない限りはほとんどなにも見えていないので安心してほしい。

時々仕事仲間に「見てほしい!」と言われて見たりするくらいで、他では疲れるのであまりやらない。

自分は「共感覚」なんだ、と知った時にとても世界のからくりが腑に落ちた感じがあった。ずっとみんなと分かり合えないのは、このためなんだと思って安心した。

自分ではない瞳で見る世界は、美しいのだろうか。

私の世界を他人は見ることができないし、きっと想像することもできないとおもう。私も同じようにそれができない。

本当の意味で「理解」し合えることは、ないのだととっくの昔に気付けたのは私にとってよかったとおもう。

それでも理解しようとする姿勢は、いとおしい。分かり合えないのに、不毛なこの作業を続ける人間で私もありたいと思った。

同じように誰かの感じている「孤独」に私は少しだけ多く、寄り添えるかもしれない。愛する人がくじけたときに、私の能力は使えるかもしれない。

いまはそんな風に思うのだ。

みんなの世界は何色なのだろう。色ではない、匂いかもしれない、ある記憶かもしれない、どんなものになっているのだろう。

自分ではない瞳で、世界を見てみたい。そのとき、私はこの世界を美しいと感じるだろうか。

すこしでも、好きだと思えるのだろうか。



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