みづなか抄|奥野

随想家、歌人の奥野です。音楽家の滝本晃司さん、言葉、短歌が好きです。絵も描きます。 い…

みづなか抄|奥野

随想家、歌人の奥野です。音楽家の滝本晃司さん、言葉、短歌が好きです。絵も描きます。 いまここに生きる私の日々の記録として。言葉のみづなか(水中)をおよぐ魚(いを)として。 /まみどりの透き影にゐてしづかなるあなたの翳(かげ)のいまをおもほゆ

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風を読み風を解き風を編む風のひと、滝本晃司さん

この空を選んだ風の吹く夕暮れ (2020年12月10日16:19 東京西部・多摩丘陵のほとりより南西方向をのぞむ) ◎ そう。そうなんだよな。 ガンシップは風を切り裂くけど、 メーヴェは上昇気流をとらえて、 そこにふわっと躯体を乗せ空の高度まで舞い上がる。 鳥たちの飛行と同じ。 目には見えない。 けれどもたしかに風は吹いてそこに存在していて。 宮崎駿さんのメーヴェの飛行シーンは鳥たちの体感をまさに憑依させてるというか。空を飛行することで目前にひらけくる身体の喜びを、うつ

    • 私の内なるその声と。あなたに届くその声と。。永遠の齟齬に生き続ける私たちの声なるいとしさについて

      声ってほんと不思議だ。 私が聴いている私の声と、あなたの聴いている私の声は永遠に内/外の耳において齟齬をきたしている。私たちは近代に至りはじめておのれの声を聴く技術を獲得した。けれどもその声も機械を通した音声ゆえ、永遠に私たちはほんとうの肉声を聴くことはできない。 そのひとの個における肉声とは何か。 声におけるまこととは。 私が生まれたそのときから内的に聴き続けるこの声は、私の歳月とわかちがたく結びついたまぎれもなく私の認識する私の声である。けれどもその声は私以外に聴くこと

      • 滝本晃司さん。雨の日の午後。風の谷のナウシカ。 そうしてやっと…いのちの海底(うなそこ)から洋上へと浮かびあがるいのちと性愛のありか*

        ナウシカのこの言葉たちが好きだ。 ほんとうに好きだ。 いまここのいのちのいとなみにおいて。 切実に切実に身を明け渡してそう思う。* 2021年6月20日(日)。 滝本さんアピア冒頭曲。雨の日の午後。 ひそかにずっと聴きたかったこの曲。初めてこの曲で泣いた。 当初の5カポから3カポへ格段に下がった滝本さんの歌声の低音の深まりと、アピアの極めて高音質な配信音源の驚きのまま。いのちなる言葉に打たれて。こんなにも底深くいのちの深みに到達する曲なのか、と。 アルバムバージョンの甘や

        • 優れた批評とは何か*滝本晃司さん。竹中労さん。小林ハルさんをめぐり音楽批評/音楽評論を問う

          歌そして音なる旋律はそのひとの身体と精神の内奥から訪れくるものだ。 それは既存の音楽ジャンルとの表層の近似性類似性を超えた、そのひとコアの深層領域から訪れる共振やヴァイブス(波動)であって。 言語表現に纏わる文体のヴァイブス同様、音楽表現に纏わる歌体/音体のヴァイブスも確実に存在する。 そして私はそのヴァイブスにこそ強烈に引きつけられるのであり、その最たるものが滝本さんの全存在であり全表現であり全音楽なのだ。 小手先のジャンル解析でお手軽に記号的に腑分けされる言葉が一向に響

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        風を読み風を解き風を編む風のひと、滝本晃司さん

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          竹中労さん『「たま」の本』*歌の精神史の霊性と肉厚ありったけにたまを愛した先人の功績

          いくつかの言葉を見て批評や評論について思うところがあり、竹中労さんの『「たま」の本』(小学館)を10数年ぶりくらい?に読み返してるんだけど。 やっぱりこの評論って竹中さんの濃密な語りの文体に乗せて、その軀体から溢れる途方もなき歌の精神史の霊性と肉厚をもってたまを讃え尽くし。 竹中労という軀体にありったけに引き寄せた「生きた語り」の力でたまを語り尽くしているからこそ。そしてその霊性と肉厚に耐えうる途方もなき魅力と強度をたまが持ちえたからこそ。こんなにも精神文化の厚みをもってた

          竹中労さん『「たま」の本』*歌の精神史の霊性と肉厚ありったけにたまを愛した先人の功績

          滝本晃司さん、美のスティグマを背負い続けるそのひとの

          滝本さんはほんとうにほんとうに綺麗なひとだ。生まれて、育って、物心ついた時からこの美しき顔を毎日のように認識して認識して成長して。。 美しさを褒められることに物凄く抵抗があると仰ってだけど、それでも他者が滝本さんの姿を言葉なり絵画で描こうとするとき、その美しさが損なわれるのは耐えられないのではないか。 私ならそう思う。なぜならおのれ自身の前提として。それこそおのれの眼に血肉化されるレベルで。日々つねに鏡を見ればこの整ったお顔があるのだ。だからこそご自身、見た目重視で綺麗な女

          滝本晃司さん、美のスティグマを背負い続けるそのひとの

          宮沢賢治「なめとこ山の熊」*小十郎と熊たち~奪い/奪われゆくいのちと反転思想の愛についての覚書

          すっと引き下がり静かに世界をまなざすと。 もうほんとに絵に描いたように、共同体の秩序維持装置としてすべてが供犠(くぎ)とスティグマの物語へと回収されてゆく。国家であれ王権であれ個のレベルであれ。繰り返し繰り返し共同体はスティグマを欲し続けてやまない。内/外。中心/周縁。われら/かれら。 伊藤三巳華先生が『スピ散歩』第2巻(朝日新聞出版)で視ていた、奈良の畝傍山山頂での古代の供犠の現場がとても面白かった。あのようなかたちで人々は供物を捧げ共食することで、神から力を授かるのねと

          宮沢賢治「なめとこ山の熊」*小十郎と熊たち~奪い/奪われゆくいのちと反転思想の愛についての覚書

          「見えない何か」を招(お)ぎよせまなざす*私たちのスピリチュアルなるものをめぐって

          日本人とは何か、という問いはあまりに深遠すぎて到底即答などできない。 けれども日本語という、さまざまな意味や呪(しゅ)を込められた漢字なる言葉を多様に使う言語を日常的に使う種族として生きている時点で、どんなに否定してもスピリチュアルな象徴と無縁な日本人など存在しえないのではないか。 道教などのさまざまな護符や呪符や霊符を見ると、日や口(くち)といった漢字が非常に多く使われており、それだけ強い力を発動する漢字であることが窺える。その組み合わせ方法や図形構成の秘儀など、当然一介

          「見えない何か」を招(お)ぎよせまなざす*私たちのスピリチュアルなるものをめぐって

          過去こそ振り返れ。                いとしき過去こそ徹底して振り返れ。

          ギャバンだって若さとは振り向かないことさと歌ってるし、老若男女問わず、過去は捨てて前を向きましょうとか、過去は捨て置いて前進しましょうとか、いわゆる世間さまのまかり通る現場ではまことしやかに「過去は振り返るな信仰」が繰り返されるけど、私は過去こそめちゃめちゃ振り返っていいと思う。 むしろめちゃめちゃ振り返って振り返って振り返って、これでもかと言うほど過去を味わい尽くしていいし、それこそ過去がいまを生かしむる大いなる動力になると。 けれどもそれはあくまでみずからのたましいが歓

          過去こそ振り返れ。                いとしき過去こそ徹底して振り返れ。

          あまねくやわらかく死者生者の結ぼれをときほぐしーーー                滝本晃司さん「歌うっていいな」深き鎮魂のよすが

          鎮魂とはひとり死者の側に留め置かれる行為ではなく、残された生者のたましいをも鎮める行為なのだと。 死者と生者ふたつのたましいに絡みつくかなしみの糸を、やわらかくときほぐすいとなみなのだと。 この10年余の歳月を経て、魂鎮め(たましずめ)なるものの意味深さを身をもって痛感している。 そういう意味でも「歌うっていいな」は滝本さんの楽曲中、最もストレートに亡きひとへ向けた暖かな鎮魂歌だと私は思っており。 確実に東日本大震災をご自身の中に落とし込まれ作詞作曲されたのだと。無数のテー

          あまねくやわらかく死者生者の結ぼれをときほぐしーーー                滝本晃司さん「歌うっていいな」深き鎮魂のよすが

          父ちゃん大好き♡♡♡

          わたりゆく季節を幾度かさぬれど鳥は求むるいとしきかのひと/奥野 * 思わず涙が出た。ごく初期に詠んだ一首。(*2013年4月詠草) 我ながら、なんの飾りもてらいもなく大好きなそのひとをまっすぐにまなざす意志が伝わってきて…。 そうなんだよなあ。むしろこっぱずかしいくらい愚直で直球であるほど、想いの中枢をつらぬいていくことがある。いまはもうこんなふうには詠めないけど。 父からの手紙もそうだった。 離れて暮らす娘に向けて、七五調のへっぽこ応援歌みたいな言葉が延々綴られた手

          父ちゃん大好き♡♡♡

          神々の

          神々の悦楽を聴け幽冥に舞ふ花びらの密度無限に/奥野

          雨うるみ

          雨うるみかのひとに哭(な)く日々もまた歌なりてこの歳月を愛(め)づ/奥野 (滝本晃司さんの数ある雨曲たちに捧ぐ*)

          あなたには

          あなたには翼があつて天の火を身のうちにほらやどして綺麗/奥野

          目覚めゆき

          目覚めゆきかたちづくらるいのちへとわれみちてゆけ かの日かのひと/奥野

          四月抄

          そしてまた雨ははじまり。きらきらと真昼の音楽を奏でつづけ。   世界を遠のかせるみどりの木漏れ日のなか生きていてねえほら。きらきらとみずみずしく樹々は生まれたてのその葉をつややかに透明にまばゆかせて。 **だいすきなあなた。こんなにも愛してたのわたし。透明に透きとおるからだつややかにしんとして。ほんとうにほんとうに愛してたの。生まれたてのただひとり。あなた。