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過去こそ振り返れ。                いとしき過去こそ徹底して振り返れ。


ギャバンだって若さとは振り向かないことさと歌ってるし、老若男女問わず、過去は捨てて前を向きましょうとか、過去は捨て置いて前進しましょうとか、いわゆる世間さまのまかり通る現場ではまことしやかに「過去は振り返るな信仰」が繰り返されるけど、私は過去こそめちゃめちゃ振り返っていいと思う。

むしろめちゃめちゃ振り返って振り返って振り返って、これでもかと言うほど過去を味わい尽くしていいし、それこそ過去がいまを生かしむる大いなる動力になると。
けれどもそれはあくまでみずからのたましいが歓喜に至る過去において、だ。すべてのいとしき過去こそ無限に振り返れ。私は強くそう思う。

言葉、音楽、文学、絵画ほか、私たちがいま芸術文化として親しむもの全て、音源や映像や作品として対峙する営みにおいて、ことごとく過去からの呼び声ではないか。ライブや演劇など最新の表現が生まれゆく現場を除き、全て過去に作られた有形無形のマテリアルを繰り返しいとしみ味わう営みではないか。

過去を否定することはすなわち、その営みすら否定することにならないか。
過去という存在の意味を、私たちはもっとともっといとしく敷衍させ捉え直していい。

あらためて。過去は振り返るなと言われる。過去こそ捨て去って前へ進めと。
私はまったくそうは思わない。その過去を思い出すことでこの身が幾度となく嬉しくみたされゆくのなら、それはいとしき音楽を繰り返し繰り返し聴きこむのと同様、私という存在そのものを永遠にみたす嬉しき行為であって。

けっして「昔は良かった」と、いまを虚しくして過去の中にのみひかりを見いだし逃避する行為ではない。むしろそのいとしき過去のつらなりがあるからこそいまのこの私という存在がかたちづくられ、いとしくみたされてあること。

すなわち過去をいとしむとはその場所からいまという場所まで生きてきたみずからの時間をいとしむことであり、いまここの私そのものをいとしく補完してみずからの存在をことほぐことであり、そうやっていまを生きるためのとても敬虔で大切な営みなのだと。

いや、だからこそむしろ逃避していいのだ。いとしき過去にこそとことん逃避して逃避して逃避して、そこをみずからのたましいのアジールとしてこの身を修復させ回復させ、いまという時間を生きるための大切な故郷とすればいいのだ。

いとしき過去こそがそのひとの人生において幾重にも支えとなっていること。
ささやかながら聞き書きやその他の現場でお年寄りの方たちのはなしを伺ってきて、あるいはしたためた文章にふれてきて、幾度となくそう思う瞬間があった。ああ、この方たちにはその思い出こそがひかりなのだ、と。

私の父方の輪島の祖母も然り。
生前私に語ることはなかったが、短いながらもじいちゃんとの愛の時間が本当にひかりだったんだなと後になって気づかされた。
駆け落ち同然で東京から輪島へと出奔し、わずか数年でじいちゃんと死別した祖母。#みづのへ抄

◎ 後天的出自を生きて
https://ameblo.jp/okuno-hi23888/entry-12440684613.html

「ええおとこやろ」と、若き日の父の写真をにこにこ嬉しげに見せてくれたばあちゃん。
父は祖父似で、変人だけど目が大きくてカッコイイ正統な美男子だった。きわめて変人だけど(2回目笑)(親自慢すみません。生前まったく素直にほめられなかった分、いまはいくらでもほめることにしてます!笑) 

つまりばあちゃん自慢の息子である父は、ばあちゃんの人生におけるもっともいとしきそのひとの大切な忘れ形見でもあるのだ。
私はばあちゃんのその想いを心から大切にしたいと思う🌸🌸🌸 #みづなか抄

◎父ちゃん大好き♡♡♡

私のブログ #みづのへ抄
ameblo.jp/okuno-hi23888

実は現在も非公開中の記事がひとつだけあって。最終的にはポジティブに言葉を結んであるものの、とても重き内容を含んでいるその記事をブックマークして頻繁に訪れる人がいて(アクセス解析でわかる)、その頻度に病的なものを感じ公開をやめた。

あれはどう考えても繰り返し読む内容じゃないし、その記事に再読の快楽を憶えるなどどう考えてもダークな領域に病没してるとしか思えない。
私はおのれの言葉がそのような暗黒の道具にされることを望まない。いつだって読んで頂く方にとって、暖かきひかりであってほしいと心から願っている🌼🌼🌼

闇や暗黒に対峙する行為は否定しない。私自身Twitter上で過去の汚濁を吐き出し大いなるブレイクスルーに至った。けれどもそれは繰り返し味わう過去とは異なる。認め許し、何もかも痛みとともに抱きしめ、そっと暖かく手放しゆく過去だ。
だからこそ繰り返す。いとしき過去こそ徹底して振り返れ、と。

さらには、時間というものが本当に過去→現在→未来という直線的なつらなりであるのか。それすらも疑っていいと。
実証証明やロジックは措くとしても、私はこの身にやどる感覚と体感において、過去、現在、未来がひとしくいまここに同列に存在する量子的ありようを幾重にも感じている。

あるいは、未来があるからいまがある。
いまがあるから過去があるという感覚。
とでも言おうか。

昨年2022年9月。ふと予感がさし、かねてから見るのがつらく、ずうっと見ることを拒んできた父と私のシナストリをはじめてホロスコープで出してみたところ。
星々の配置の中から、真っ先に父の太陽と私の冥王星がオーブなしにタイトに合する座相が飛び込んできて涙が止まらなくなった。

ホロスコープでは、公転周期の長い惑星が短い惑星に影響を及ぼす。ましてや私と父を介すのは公転周期最長248年の冥王星。しかも父のドラゴンヘッドはルーラー冥王星の蠍座。
そうなの(泣)そうだったの父ちゃん(泣)やっぱり父ちゃんは私の父ちゃんになるべくして生まれてきたひとなのねと(泣)と。

しかも父はAsc射手座で月射手もライジングしつつ私のMCと合。さらには木星も私と滝本さんと同じ水瓶。こんなにも私と滝本さんを巻き込み繋がりゆく符合。。(泣)
だからこそ、私のこの月冥王星の重力を背負うべく生まれてきて、私を滝本さんと出逢わせてくれて、本当に本当に本当に有難う(泣)と。

私が娘として存在する未来の領域から、父の生涯とその宿命をいとしく抱きしめ捉え直すパースペクティブが存在することを私は心底ことほぎたい。
そしてそれを深く深く示してくれたホロスコープがこんなにもいのちの杖となり、こんなにも滝本さんへの道行きを照らし続けている事実も。


(2022年10月18日ツイート)

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