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日常+「ざわざわ」=自由。奥田庵は人気もなければ応援もされない。


奥田庵の小説は捉えどころがない。
悲しい話を書きたいのか、笑える話を書きたいのか、詩的な話、不思議な話、感動、青春、恋、問いかけ。様々な物語が混雑することにより、印象を「ざっくり」と、まとめづらい。

物語の主軸は「日常」に舞台を置いているが、その日常には、いつも「ざわざわ」が見え隠れする。

「ざわざわ」?

ざわざわとはなにか?

奥田庵は人気もない。応援もされない。
活動は不定期だし、その活動がどこを目指しているのかもわかりづらい。

例えば、「芥川賞をとる!」だとか、「100万部売る!」とか、「映画化!」とか、「だから皆さん協力してください!」とか、そんな感じでもない。

奥田庵はどうなりたいのだろう?
それを明確に示されない限り、応援するにしても、どう応援すればいいのか分からない。

つまり、作風は「捉えどころ」がなく、目標も「不明瞭」、当然、人気もなければ、応援もされないのである。


では、奥田庵はいったい何をしたいのか?
読み解くヒントは「気配」と「自由」である。
奥田庵の多くの作品は「日常」+「ざわざわ」で構成されている。

異世界に行くわけでも、時代劇でも、未来でもなく、現代の「日常」における物語を描く。

その日常に「ざわざわ」が加わることにより、物語の視点は少しずつ変化していく。

そこにあるものをどう見つめるかによって、同じ世界にいても「死にたいぐらい退屈、興味がない」と思う人と「どうしようもなく楽しい、興味深い」と思える人が現れる。

奥田庵は「物語」という形態を使って、視点の変化による「自由」の模索を行っているフシがある。

生きづらさからの解放。

「足音にロック」の死の足音、「恋すること」の僕の不在、「妹と猫」の猫の視点、「ドーナツと彼女の欠片」の存在が消える妻、日常に忍び寄る「ざわざわ」な気配を頼りに、物語は進んでいく。

日常に潜む「ざわざわ」する気配に誘われ、深く暗い物語の森の中を彷徨い、特殊な体験を経て「次の視点」へ抜け出る。

何かは消化され、また新たな気配が生まれる。

ざわざわ。

なんかあるっぽい。息苦しい。

一歩、また一歩。
そして、どこかに辿り着く。
それがゴールなのかは分からない。

ただ、それらの物語を通した擬似体験が確実に実生活の「日常」に繋がり、ある「ざわざわ」に対しては免疫が生まれる。

奥田庵は人気がないから誰にも執筆を依頼されないので自分の作りたいものしか作らない。
だから、同じ「ざわざわ」を繰り返し書いたりしない。

過去の「ざわざわ」は通過し、解放される。視点の変化が「日常」に対する新たな捉え方を生み、心は自由に近づく。

つまり、日常+「ざわざわ」=自由。
奥田庵は、この方程式を進行形で解いている最中なのではないのか?

と、ここまで仮説を並べてみても、やはり捉えどころはない。

だから奥田庵は人気もなければ応援もされないのである。

きっと、今現在も奥田庵は、誰にも注目されることもなく自由な視点も求めて、一人静かに「ざわざわ」していることだろう。


なので、応援お願いします。



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