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哲学・日記・メモ「目の前の貴方は私の可能性の顕現である、かもしれない?」

目の前の貴方は私の可能性の顕現である、かもしれない?

複雑で繊細な議論をしたいとは思いません。
だから大雑把なところでの所感を述べれば、大乗仏教における菩薩道とは、目の前の貴方を含めたあらゆる魂の現前は、私の可能性の顕現である、と考える事によってしか、私はこの菩薩道を納得することは出来ません。
すべての「者=もの」を救済することが、私の解脱の必要条件であるという菩薩の祈願。「現前するあらゆる『者・もの』は私の可能性の顕現である」のだから、私が解脱するとはあらゆる「者・もの」が救われる事である、と言う訳なのだろう。そしてこの菩薩道とは、私と他者と言う分裂をを解脱と言う目的によって一致させる、良く出来た(皮肉ではなくてよく考えられたという意味)方便だな、と思うのです。
尤もこの希求を裏打ちするものは、生とは苦である、と言う認識であることには違いはないのだろうけれども。
だから「生」をポリティカルコレクトネスとして肯定せざるを得ない、あらゆる教説は方便であるのだろう。
しかしそれは本当にそうなのかな?

2021年9月23日 岡村正敏

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