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詩・散文 「鬼と翁童」

『鬼と翁童』
おにあーそぼ
川崎洋編『子供の詩』(文春新書)に収録されている一編の詩である。子供らしい直截な表現が魅力だが、これは子供の詩だからこそ魅力なのだと思う。大人の作であれば、ひねった感にいやらしさを覚えきっと私は冷めてしまうだろう。では90余歳のご老人の作であったらどうか?あかぬけた粋な表現として、それなりにしっくりしたものとして納得するのではないだろうか?子供と老人にはぴったりなのだ。この詩は。これは何か示唆的に思えるので以下少々考えを深めてみたいと思う。
始まって終わるのが人生であるならば、子供は人生の始まりのほうにいると言える。老人は終わりに近い場所であろう。子供と老人が立っているのは共に人生の外側に近いところであり、外側とは意識と世界の外部、その不可知の領域である。そこに闇が広がっている。その暗い闇からやって来る、意識の光にほのかに照らされて蠢く得体の知れない恐ろしい力を古く日本では「もの」と呼んだのだと言う。やがてそれが「おに」と呼ばれるようになった。「鬼」とはつまり人生や意識の外側(死や無意識といった超越的な外側)や、更に敷衍すれば社会秩序の外部(権力による統治の及ばぬ空間的な外部)といった「闇」からこちら側の世界を侵犯するものなのである。それは不気味なものや死や社会秩序の撹乱として顕れてくる。だから厄災の象徴とされ異形のイメージを付与され畏怖されてきたのである。しかし鬼とは厄災をもたらすだけのものなのであろうか?
詩や俳句を趣味とする人なら分かると思うのであるが、詩の言葉は出そうと思って意のままに出てくるものではない。意のままにならぬところから降ってくる、若しくは湧いてくる。優れた詩人や俳人とはきっと、「意のまま」と「意のままにならぬ」ところの境界に立ち境界の外から言葉を授かる技に長けた者なのだ。境界の外に広がるのは勿論、前述に倣えば「闇」の領域、鬼の住処でもある。詩人はそこから鬼の力を厄災としてではなく、言霊として授かる。それを詩に纏め上げる。その詩がこちらの世界(人生や社会)の硬化した秩序を揺さぶり、人の生活と社会に息を吹き込み、人と社会は創生の活力を得ることになる。そして重要な事は、言霊を授かる時詩人は鬼と戦ってはいないと言う事である。鬼と戯れるのだ。戯れる事で言葉を授かる。この時鬼は人と社会にとっての脅威ではなくなり、創造的なものの源泉として顕れているのである・・・。
最初に紹介した詩に話を戻してみよう。この詩は「境界に近い」子供ならではの、鬼とあそぶ特権によって授かった言霊なのだと思う。「境界に近い」とはまた老人にも言えることであろう。そして私はこれまで「子供」「老人」と記してきたが実は年齢のことを言っているのではない。心の在りようの事を言っているのである。子供や老人である、とはこの世界の内と外の境界に立って心をあそばせることが出来るという事なのだ。それは創造的に在ることが出来ると言う事。生を生き、生き生きと生きる事が出来るという事でもある。創造は詩人やクリエイターの特権ではない。彼等に任せなければならない特別な秘匿な事ではない。創造は普段の生活の中にありその気になれば誰にでも可能な事なのだ。しかしその事を忘れるほど私達は何かに急かされまた互いに急かし合い毎日をこなして過ごしてしまっている。他方。国家や組織といった集団単位を見てみれば世界各所で鬼は跋扈している。21世紀。現代。今。私達もきっと鬼からすれば鬼なのだ。互いは互いを封じ込めんと躍起になっている。鬼退治は昔話ではない。脈々と受け継がれている伝統の桎梏だ。私はもっと自由に、あるいは自在に、鬼とあそぶことは出来ないものかと思う。鬼退治の歴史の陰に。鬼と寄り添う「あそび」の系譜。それは確かにあるのだと思いたい。 
                  2015年1月29日 岡村正敏

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