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哲学・日記・メモ 「メモ 観念の独裁者としてのヘンリー・ダーカーとアドルフ・ヴェルフリ」

メモ 観念の独裁者としてのヘンリー・ダーカーとアドルフ・ヴェルフリ

●「触覚」は対象との距離が0であるとに安寧せんとする。
●「聴覚」は距離が0でない事を知っており、0に歩み寄ろうとする。
●しかし「視覚」はこの距離をどこまでもたもとうとする。対象に歩み寄りつつ距離を隔てようともする。そういうジレンマに悩み且つ愉しむのが「視覚」。
●では「観念」はどうか?「観念」はむしろ、対象との距離云々ではなく、対象を捨象して、対象から離れてしまう。対象にとらわれない「自由」を欲する。
●否。観念は「自由」と言うというより「欲望」だ。好き勝手が出来るから。そしてどこまでも好き勝手が出来る「欲望」は、これを徹底する事でしかその鎮静を「謀る」事は出来ない。                 ●これは欲望を悪とし(執着を悪とし)、欲望を無くそうという努力(執着を無くそうという努力)とは真逆なベクトルである。と思います。欲望は徹底する事でしか鎮魂出来ない。
●だから私は「条件付き」でこちらを選びます。この「条件」とは欲望を「絵画」もしくは「本」の中で完遂する事。
●これを実直に行った著名なアーティストはヘンリー・ダーカーとアドルフ・ヴェルフリしか今の所思い浮かびません。
●「観念」だけが独裁が可能なのだ。そして「独裁」は「独裁」でもって自己否定されるしかない。のかもしれない。
                          2011年岡村正敏

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