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「保守とネトウヨの近現代史」倉山満(著)

 政治の話というのは日本では敬遠されがちな印象だが、この本を読むとその理由もわからなくはないと思える。この本は昭和から現在にかけて「保守」や「右側」に属する言論人たちの総体的な動向について著述している一種の小説、ノンフィクションの類いとして読める一冊だ。

時代風潮から居場所がなかった時代から居場所を経て、現在に至る程度の影響力を持つまでにその内実はどのようなものだったのか。著者もその歴史の生き証人としてこの本に自らの想いをのせているようにも感じた。

 この本を一貫しているものとして著者の業界への「嘆き」があるように感じられる。時代風潮的に保守の陣営は論壇において居場所がなかった昭和。戦争の反省と左派思想の流行によって論壇は左派が席巻。保守は即、戦争を反省していない軍国主義とのレッテル張りをされ攻撃される。

そんな言論の自由が存在していたか怪しい時代がつい数十年前の日本の論壇であったことは面白い事実である。左派の自由とは自らの自由であって敵対する者の自由は認めないという姿勢は現在においても見られる傾向の一つだろう。

そんな昭和期において折れずに戦い続けた人々が現在への道筋を作った一方で、折れずに戦い続けるためには手段を選ばない必要があり、その情緒的な論調は今現在にも連なるところがあるという著者の意見には大変共感できるところがあるのではないか。

現在においてネット上の「右」も「左」も感情的な場面を多々見る。これは事情を知らないものからすれば「気持ちが悪い」「みっともない」という印象を抱かれてもしかたがないことだ。両陣営共に宣伝が「外部への共感」ではなく「内部への共感」に行ってしまい、新規の関心を遠ざけ「身内ネタ」になって満足している点は否めない。

 このような「内内の性格」は保守がソ連崩壊後、発言権を得ていく過程において徐々に顕著にあらわれてきたと著者は多くの例を持って裏付け、読者に教示してくれている。日本には現在、保守系を連想させる情報媒体や組織は多々あるが彼らが保守精神の共感者増加のために良識に則った言論を行っているかと聞かれたら私は首をかしげたくなる。

内部対立の顕著さや長年論壇の端に追いやられていたため、いざスポットライトが当たるかもというときに折り合いをつけられず喧嘩別れをしてしまうという組織力のなさと「主張・個性の優先」というそれぞれの過信にも似た自信は間違いなく現在にもつながる弱点の一つだろう。

 日本の論壇の保守陣営が左派陣営にたいして優位に立てず未だに憲法改正が出来ない理由の一端をこの本から察することができる。それはどこか左派陣営にも似た業界の風潮があったり、思想ではなくビジネスという主体が出てきてしまったり、定義が徐々に曖昧になってきてしまったりと著者が嘆いている部分は多岐にわたる。

ゆえに今一度支持者は冷静になるほかない。支持者は考えなければいけない。自分は「ファン」なのか「保守主義に共感する者」なのかを。このどちらに立つかによって見える景色は大きく変わる。自分の足で視点でものに触れるのか、それとも一ファンとしての視点を通してものに触れるのか。著者が読者に伝えたいことはまさにそのようなことに感じた。

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