勉強がつまらないと感じるのコミュニケーションの問題だ
教育とはコミュニケーションである。学校におけるそれは教える側である教師と教わる側である生徒とのコミュニケーションという意味だ。ゆえに生徒が教わる内容について理解できるかできないか。またどのような感想を持つかは教員のコミュ力に委ねられている節がある。
専門学校生と話していると「私もオリラジのあっちゃん(中田敦彦氏)のyoutubeで勉強してたら、絶対高校の成績よかった」と言っていた。私は彼のファンではないけれども大きな影響を視聴者に与えていることは間違いない。彼のファンはみんな「あの授業はおもしろいしあっという間で勉強している気がする」と口々に感想を持つそうだ。
これは彼が教師としてのコミュニケーションが非常にうまいということを意味している。すなわち教員志望の人々はあれくらいのコミュニケーション力を持つことが求められているのだ。それは難しいと思うかもしれないがそれが努力しない理由にはならない。
学校教員とyoutubeなどで授業をしている塾講師やフリーランスとの決定的な違いは地位が守られているか否かということである。公立教員は公務員扱いであり能力がなくてもクビになることはない。なんならかつて犯罪を起こしたような教員も教育委員会の判断次第では復職できる例があったほどだ。これは一重に教育が生徒目線で考慮されているのではなく、公務員視点でつくられているからに他ならない。
私の中学の恩師は「学校において教員が一番偉いなどという考えを持っている教員はクソだ」と言い、後に校長になった時には全校集会で「この学校で偉いのは校長ではない。一生懸命にトイレ掃除をしてくれている事務の人だ」と話していたときに強く感銘を受けたのを覚えている。
教員は学校における歯車の一つでしかなく、それが特権化しているような扱いを受けるのは大きな間違いだ。教員は雇い主なくしては存在せずまた支持してくれる生徒なくしても存在しない。公務員扱いであることにあぐらをかいて、業務に取り組むのは大きな間違いだ。
生徒が学ぼうと思えるような教育サービスを提供して始めて学校という組織は関係者が良い方向へ進めるようになるのではないだろうか。あらゆる教育サービスは現在、方々で行われているわけでもはや学校という組織は教育の独占を行える組織ではない。旧来的な発想で熱を持った教員志望や生徒の時間を奪わないでもらいたい。
教員である以上、求められるのは中田氏のような教育を教室で実現することだ。それが無理ならそれは能力はないということと同義である。能力がないにも関わらず安定的に賃金がもらえているのは不可思議な事実であり、それは市場社会に反する。
生徒のために向上心をもった教員が集合し「知のテーマパーク」として生徒とコミュニケーションを図れる学校こそが本来の教育の最前線である現場に求められる姿ではないか。こういう点で学校という旧来的な組織は今後発展の可能性が残されている。
日本の大学ランキングで段々と日本の大学の評価が下がっていることを嘆く記事が散見されるが私からすれば当たり前だ。あのような旧来的官僚組織は競争力がなく、生徒の競争力は入学までの努力であり卒業のための努力でない。このような現状でいかにして子供たちに教養が身につくのだろうか。学校よりも塾よりもyoutubeで学問の楽しみに触れるしはかないという子供たちを日本の教育は救わないといけない。
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