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課程博士の生態図鑑 No.27 (2024年6月)

※ サムネイルの背景に使用しているのは、クロード・モネによる「Snow Scene at Argenteuil」という作品の一部を切り取ったもの。モネが描く雪が好きなんです。


研究の進捗

書きながら考える

今月から本格的に博士論文の執筆に着手している。プロットの作成は前々からやっていたのだが、そろそろ煮詰まってきたところだったので、実際に本文を書きながら考えることにした。

プロットはNotionでまとめていて、清書はInDesignで作成しているのだが、不思議なことにInDesignで清書を書き始めてからの方が思考が数段深くなったように感じる。本番環境で作業すると、最終アウトプットのイメージをしながら書くことができるので、モチベーションも高まるし、なんだか集中力の質も高まる。プロットというのは、思考の整理には役立つが、具体的な物事を書くのには限界がある。InDesignに移行してから(別に作業環境はInDesignでなくてもいいのだが)は、実際に使用するフォントやレイアウト、読み心地をイメージしながら書くことができるので、論文全体の構成がイメージしやすい。

「プロットをブラッシュアップするだけではなんだか思考が深まらないので、もう清書を書き始めちゃってます」と指導教官に言ったら、「変わってるね」と言われてしまったのだが、共感してくれる人はいないのだろうか。普段から書いてるこのnoteに関しても、一旦ババっと書いてしまってから、後で文章を再構成しているので、個人的には違和感はそんなにない。

ただ、学会に出す投稿論文に関しては話が別だ。投稿論文を書く時は、学会の方針や特徴などをなんとなく理解して、それに準拠する形で論文をまとめるし、文字数も限られている。たとえば僕はデザインに関する研究をしているのだが、教育系の学会に出す時は、教育の文脈にちゃんと位置付ける。あとは、その学会がすでに発行している論文をいくつか読み漁り、「こういう分析をしたり、こういうデータの見せ方が好まれるんだな」というのをロジックで掴む。つまり、どんな制約が存在するのかをちゃんと把握するということだ。

僕は結構学会に受け入れられるか否かのギリギリのテーマや手法を扱うのが好きなのだが、どの道ちゃんと計算してないといけない。なので、書きながら考えてると、提出先の学会から大きく外れた論文になってしまう。だから最初に方針を完全に決め、プロットも細部まで詰め切ってから清書を書くやり方が合ってるし、やりやすい。

でも、博論はもっと自由だ。まぁ、自分が所属している学部の先生方に受け入れてもらわなければならないので、ある程度の制約はあるのだが、文字数制限もないし、学会に提出する論文よりかは全然制約が緩いように感じられる。

なので、書きながら考える方法が僕には合ってると、暫定的ではあるが思っている。もちろん、今まで計画的にやってきた研究は存在するので完全に自由に書けるわけではないが、歴史上のどの文脈に位置付け、編纂するかは、緻密に清書を書いてる中で新しいアイデアが浮かんでくることもある。

とにかく、今は博論を書いてるのがとても楽しい。どんな論文に仕上がるかが楽しみである。

デザインをフレーム化することの功罪

僕は博論で、創造的自己信念という概念を扱っている。これはものすごく端的に言えば、「自分は創造的なものを生み出せる」あるいは「自分は創造的な人間である」という信念のことである。つまり主観的な創造性ということだ。

それに注目した背景として、近年デザインの思想や実践知を、非専門家にも開いていく動向が存在することが関係している。デザイン思考や参加型デザインがそれにあたるのだが、ただデザインを開いていくだけではこれらの活動を普及させることは難しいのが現状だ。

企業がデザインに対してお金を使ってくれないだとか、国が教育政策としてデザインに力を入れていないとか、構造的な問題は枚挙にいとまがないが、「そもそも創造的な信念を醸成することが重要なのではないか?」というかなり根本的な部分に目をつけ、こうしたテーマを扱うことにした。

博論を書くにあたり、自分が扱うテーマを改めてデザイン史の中に位置付ける章を最初に設けることにした。今はその章を詰めている途中である。デザイン史といっても、博論の一部として扱う程度なので、そんな厳密に記述するというよりかは、大枠をざっと捉える感じだ。ここからは、少し論文っぽい感じで現在の考えを紹介する。が、参考文献などの細かいところはめんどくさいのでこのnoteではほとんど省略する。

まずは、デザインを世に普及させていく上で、メソッドとしてフレーム化することによる功罪についてまとめている。例えば、近年デザインの考え方が社会に大きく浸透した要因の一つとして、アメリカ発のデザインファームである IDEOが、スタンフォード大学のd.schoolプログラムを通じて提唱したデザイン思考が挙げられる。これは、デザイナーとしての訓練を受けていない者でも、デザイナーのスキルや考え方を取り入れることで、人々のニーズやテクノロジーの可能性、さらにはビジネスの可能性を広げることができる人間中心のイノベーションアプローチだ。ブルース・アーチャーなどのRCAあたりのデザイン思考も触れようか迷っているが、出自的には全然違うように思うので、一旦は保留している。

また、日本においても上記のようなデザインを民主化する動きが注目されてきている。2018年に経済産業省・特許庁が公示したデザイン経営宣言では、企業が顧客に求められる存在になるため、デザインによってブランド力とイノベーション力を向上させることの重要性が説かれている。これは単にデザインの専門家が事業に参画するというだけではなく、非専門家(本宣言ではビジネス系、テクノロジー系という言葉で表現されている)が、デザイン思考を身につけるために研修などを実施するとともに、専門領域の異なる人材同士が創造的に課題を解決するプロジェクトやワークショップなどを導入することなども視野に入れている。

しかし、日本におけるデザインの民主化の動きはまだそこまで影響力を持っているとは言い難いと僕は考えている。経済産業省・デザイン政策室の「我が国の新・デザイン政策研究」では、14の諸外国と日本のデザイン政策の違いを比較しながら、日本のデザイン教育がまだ体系化されておらず、まだ一般に普及できる土壌が整っていないことを指摘している。もちろん、義務教育レベルからデザインを教える仕組みづくりや、民間のデザイン会社と政府の連携、あるいはデザイン知を蓄積した政府から民間企業への支援など、デザインを体系化することでデザインの民主化を測る動きは重要である。

しかし、体系化することで抜け落ちることも多分にあるのではないだろうか?手法としてパッケージ化することで、デザインに触れた経験の少ない人でもデザインという営みの一部が理解しやすく、実行しやすい形にすることができるが、「うまくやるための方法」が一人歩きしてしまい、手法化する過程にあったはずのデザイン実践者の経験や学びがこぼれ落ちてしまうのではないか。つまり、デザインを「思考」の組み立てとしてのみ捉えるのではなく、デザイニング(デザインすること)として思考と行為を包括的に捉える必要があるということだ。

これについては、d.school自身が「Design thinking is a misnomer; it is more about doing than thinking. Bias toward doing and making over thinking and meeting. 」と述べており、デザインをthinkingと命名してしまったことで大きな誤解が生まれ、doingの部分が無視されている現状を良く表している。

https://dschool.stanford.edu/resources/the-bootcamp-bootleg

消費者をデザインのプロセスに巻き込む手法

このような問題意識から、日本デザイン学会のInfo-D(情報デザイン研究部会)は当事者デザインという言葉を2014年あたりから掲げるようになる。当事者デザインとは、コミュニティに所属する構成員が自身のやり方で現場の生きた問題に向き合う活動のことである。

当事者デザインへの理解は、参加型デザインとの関わりの中で整理するとわかりやすいかもしれない。そもそも参加型デザインは北欧を中心に広まった手法であり、多くの人が自分達の生活について意思決定することを求めた1970年代に始まったとされている(1960年代からとする論文もあるが)。つまり、専門家などの限られた人たちだけでデザインするのではなくて、実際の利用者や利害関係者たちがプロジェクトに積極的にかかわっていく取り組みである。今まで消費者でしかなかったユーザーを「自身の経験の専門家(experts of their experience)」としてデザインプロセスの初期段階から参加させるということだ。現在では当たり前とされているHCDの源流の一つとも言える。

また、1990年代後半にはオープンイノベーションを進める手段の一つとして、生活者と企業・行政が共創する方法論であるリビングラボが欧州で注目され始め(リビングラボという言葉自体はMIT教授であり建築家の、William J. Mitchell により提唱されたと言われているが、生活者と共創するという哲学はあまり強くなかった)、2000 年のTestplace Botania(後のBotania Living Lab)を皮切りに、欧州では各国の政府の施策としてリビングラボ構築が主導され、2006 年にはEU の議長国であったフィンランド主導で19 のリビングラボによりENoLL(European Network of Living Lab)が設立された。いずれの事例も名称は違えど、根底には生活者の「参加」による共創が共通項として眠っている。

この「参加」という言葉にはいくつかの段階が存在する。例えば、単にヒアリングの対象としてユーザーを巻き込む段階もあるし、ものづくりの工程の一部(アイデア出しなど)に参加してもらうこともあれば、今まで消費者でしかなかった現場の当事者自身が主体的に問題に取り組む段階もある。この段階になると、最もデザイン(thinkingだけではなく、doingも含む)を民主化していると言える。この段階ではデザイナーはコーチングの役割を担い、人々を「創造する生活者」として捉えている。Arnsteinの参加のはしごなんかが有名だよね。

Arnsteinは市民の力という考え方をもとに、住民がまちづくりに参加していく際の形態を梯子のメタファーで8つのレベルに整理している。下から順に見ていくと、ManipulationとTherapyの段階はそもそも参加すらしていない状態。Informing、Consultation、Placationは参加はしているものの、まだ形式的な参加に留まっている状態。そしてPartnership、Delegated power、Citizen contorolになるとようやく実質的に参加している状態になる。このレベルになると市民は主体性を持ち、本当の意味での共創、つまり当事者によるデザインが行われていると言える。

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/01944366908977225 をもとに作成

ただ、Citizen contorolの状態はかなりラディカルであり、現実的ではない。PartnershipやDelegated powerの状態がいわゆる参加型デザインで理想とされる状態だろう。僕の研究では、消費者であった非専門家が主体性を持ってデザインプロセスに参加していくためのヒントを創造的自己信念に求め、探究していく。そのため、いきなりDelegated powerの状態を扱うのではなく、その状態に移行するための橋渡しをするための研究である。

創造性を人間のもとに

上述したように、共創を根底の思想とする参加型デザイン自体は、デザイン思考が世に知られるよりも前からあった考え方ではあり、近年再注目されてきている手法だ。しかし、本来創造性というのは人間全員のものだったのではないだろうか?

例えば、狩猟採集社会において、人々は生存のために自分たちで道具を作って生活しており、それゆえにデザインの作り手と受け手などという区分は現在よりも曖昧で、Arnsteinが言うところのDelegated powerの状態だったはずである。それが約1万年前から始まった農耕社会への以降に伴って立ち現れた都市化に伴う効率化の流れからものづくりの専門化・分化が進み、少数の専門家が創造行為を担当するようになり、デザインの受け手は消費者となった。

アーツ・アンド・クラフツ運動から始まる、近代デザインプロジェクトの目的の一つである専門家による規格化・効率化による大量生産(主にドイツ工作連盟やその後のバウハウス)は、まさに少数の専門家による創造行為だろう。

近代デザインが産んだ大量生産というシステムは、規格化によって誰にでも同じものを供給していくという発想が根底にあり、それは「大衆」という概念を産み出したと言える。つまり、少数の専門家が大衆に向けて規格化された製品を一方的に供給していくということだ。

これについては偏りのあるデザイン史の解釈に思われるが、大量生産と大衆はアメリカ的な資本主義社会にとっても、革命後の社会主義を目指すロシアにとっても共通のテーマであり、イデオロギーの差異を超えた近代的な動きだった。日本においても、1930年代の商工省(現在の経済産業省)を中心とした産業合理化運動に始まる経済政策などを見れば、例外ではないことがわかる。

20世紀においては、デザイナーはものづくりを規格化することで大衆の消費すらも規格化し、効率的に欲望をコントロールする傾向にあったのだ。

しかし、やがてデザインの領域は「モノからコトへ」と言われるように、対象となる領域が拡張してくると、20世紀頃のデザインの花形であった広告のポスターや、工業製品、ファッション、建築などの領域に収まらず、医療、政策、経営、教育など、デザインは様々な領域に展開されるようになったことで、デザイナーなどの専門家だけでは物事の解決が難しくなってきた。

デザインの領域が広がっていくにつれて、他分野の知識やスキルも同時に求められてくることは自明のことであるが、特に医療や政策、教育などの分野については、最適な解決策を創出することが困難な分野である。そしてこれらの領域は、アイデアをテストすることも難しく、且つ間違いも許容されない。Horst WJ. Rittelはこのような問題を「厄介な問題(Wicked Probrem)」として定義付けている。

つまり、都市化に伴う効率化の流れで、一時は創造性およびデザイン行為は専門家の手にのみ託されていたが、社会がより複雑化してしまったことで、本来皆がものづくりに携わっていた状態に戻りつつあるということだ。

やや単純化しすぎではあるが、このような歴史を鑑みると、近年の参加型デザイン、あるいは当事者デザインの思想が注目されている流れは必然であるように思える。

消費者を創造の主体者としてデザインプロセスに巻き込んでいくこの流れは、思想家の柳宗悦を中心として行われた民藝運動の取り組みに同様のビジョンが感じられるが、この運動は日本の産業構造に大きな歪みを生じさせるほどではなかった。しかし、民衆より生まれ、民衆のために役立つ雑器に価値を見出したその思想は、現在の参加型デザインの潮流の中に生き続けているのではないか。本来創造性というのは全員のものなのだ。

とまぁ、この辺りがざっくりとした研究の背景である。ここから創造的自己信念についての詳細な定義や問題点、分人の分析などをまとめていく。

指導教官に細かいところは少々指摘されたものの、概ね良い評価はいただけたので、この調子で8月には博論を書き終えたい。


客観ってなんだろう?

客観ってなんだろうか。あるとき指導教官とそんな話題になった。指導教官は、客観というのは人間が観測する前から存在するアプリオリなものではないか?と言っていた。僕もある程度は同意するが、少し違和感がある。正確に言うと、前までは客観のことをアプリオリなものだと思っていた。

客観というものがどうやって構成されているのかを考えたときに、結局は人間(でなくてもいいのだが)が観測可能であるものに限定されるのではないか。例えば、死後の世界について、人間はまだ発見していないし、一生発見できない幻想的なものかもしれないが、存在している可能性を完全に排除することはできない。なぜなら、不在の証明はできないからだ。

もう少し実感が湧きやすい例で言うと、宇宙の外側なんかは、人間が観測していなくとも一見アプリオリに存在していそうだが、客観的な事実として存在しているとは言えない。だってまだ人間が観測していないのだから。

日本の哲学者である西田幾多郎は、「善の研究」という本の中で、以下のようなことを言っている。

純粋経験から見れば,主観を離れた客観はない.我々の経験を統一したものが真理なのである.

自然現象も意識から説明ができる.例えば,一つのランプが自分のみに見えるならば,主観的幻覚となるが,複数人がそれを認めるなら,それは客観的事実なる.

実在を意識現象とするならば,人間の主観から離れた自然は,実在ではない.ただ,比較的に客観的であるだけで,絶対的に客観ではない.

西田曰く、客観は主観の集積である。この結論に至るまでのロジックを話していると長くなってしまうのでここでは紹介しないが、本の中ではかなり論理的に説明されている。気になる人はぜひ読んでほしい。

つまり、死後の世界も、宇宙の外側も、人間がまだ観測していないという意味においては実在ではないので、客観とは言えない。この考え方に則ると、アプリオリな客観的事実というのは存在しないのだ。西田は「比較的に客観的」と言っているが、個人的には「これから客観的となるポテンシャルを持っている、主観でも客観でもないもの」と言い換えた方がすっきりする。

おそらく西田は主観と客観をグラデーションとして捉えており、主観が集積すればするほど、つまり再現できる回数が増えれば増えるほど客観の度合いが高まっていく。彼の言う通り、複数人で同じ景色を見ている時に、一人だけに見えるものがあったとしたら、それは幻覚だ。

人間の心を扱う学問にこれから向き合いたいと思っている人に言いたいのだが、「再現性の危機」なんていう大きな物語に流されずに、人間一人だけに見えている幻覚的な世界を、いかに緻密に記述できるかを大事にしてほしい。人間の心を扱う学問なのにも関わらず客観客観うるさい人は、おそらく主客についての持論を持っていないし、大抵つまらない考え方の人なので、気にせず頑張ってほしい。

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