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自分にとって良い文章とは何か?

100人いたら100通りの「良い文章」の定義があると思う。このnoteもそのうちの一つとして読んでほしい。

文章に対する褒め言葉にはさまざまなバリエーションがある。分かりやすい文章、心を動かす文章、詳しく描写された文章、美しい文章。インターネットで読まれるのが当たり前の今は、PVを稼ぐ文章、シェアされやすい文章、SEOがしっかりしている文章、というのも十分な褒め言葉になる。

私の場合、仕事で扱うのは他者であるお客様の文章が多く、コンセプトの中継者・仲介者として機能する必要がある。だから「お客様の意図がしっかり組み込まれて、初見の読み手でも情報が間違いなく届くもの」が仕事における良い文章と言える。これは揺るぎない。

ただ、自分が関わる文章全部にそのルールを課すべきなのか。しばらくグルグルと悩んでいた。

ウケるかウケないかという物差し

難しいのは、数値のように明らかな基準で「これは良い、これは悪い」と区別しきれない点だ。一読して自分の感覚で「これは良い文章だな」と思ったり「下手くそで読みにくいな」と思ったりするのはある。かといってその感覚が万能なわけではなく、基準自体が間違っている可能性すらある。

ある文章を読んで「これは面白い」と思っても、世間では全く反応がなくて自分だけが熱量高く「いいよね!」と叫んでいるとか。世間で大評判になっている文章を読んだけれど「そんなに良いのかな」と疑問に思うとか。ズレが生じると途端に自信がなくなる。

書き手として差し出したものが予想と違う反応を生むと、もっと迷う。あれっ、これは違うのかな。あれっ、こちらのほうが反応あるのか。

そのたびに反省して見直して次に生かそうと試みるけれど、実践したらしたで再び同じ迷いが起こる。ずっとそれを繰り返している。

反応とは、俗っぽくいうなら「ウケが良かった、ウケが悪かった」という言葉に集約される。ウケが良い文章を書けたらそれは正しかった。ウケが悪かったらそれは間違っていた。この物差しを個々のアウトプットに当ててみては一喜一憂している。

最近ここで疑問が湧いてきた。

それは「良い文章」の必須条件なのかな?
毎回そこを狙っていくことが本当に正しいのかな?

ウケ以外の基準はあるか

読み手として出合って「これは良い」と感じ、何度も反芻したくなる文章や本はおそらく皆がそれぞれ持っている。もちろんウケ以外の基準で判断されたものだってたくさんある。

世間的な売れ行きは悪くても、詳しく事実が記録されていて面白い本。自分が好きな切り口で新しい視点を提示してくれる楽しい評論。読者は少なくても思わず共感する気持ちや体験が書かれているブログ。自費出版の詩集から見つけた忘れがたい一篇。蔵に眠っていた市井の人の古文書や日記。稚拙でも力強さに惹かれる文章。

特に自分だけ「素晴らしい」と評価していて周囲はあまりそう思っていない文章は「ウケが良いか」と問われたら答えは「良くない」だろう。でも読んだその人にとっては間違いなく「良い文章」だ。

周囲の反応は関係ない。その人が何かを狙って書いたのかどうかも関係ない。実は筆者の意図しないところで一人だけ感動しているのかもしれない。でも、読んだその人にとっては間違いなく「良い文章」だ。

自分が読者になった際の「良い文章」は比較的分かりやすい。好きな文章、気に入った文章、感心する文章が「良い文章」になる。

プライベートでどこを目指すか

問題は書き手になったときの「良い文章」をどう定義するか。他人の目をどこまで意識すべきなのか。反応ゼロの文章は存在価値もゼロなのか。

仕事における文章作りでは一定の「ウケ」の物差しは不可欠だ。読んでもらうための文章を書かなければいけないし、読んだ人にはちゃんと伝わらなければいけない。可能な限り拡散してもらえる文章のほうが確実に伝達の効率が上がる。

ただし、それ以外の場でも「反応がない文章」は駄目なのか?

私が見つけた答えは、読み手にとっての「良い文章」と同様に、書き手にとっての「良い文章」も周囲の反応を基準にしなくていいということだ。「PVを稼いだこれだけが良い文章で、あとは認めません」という世界ではなく、もっと自由。

たとえ読み手がいなくても、文字として表現されたことにまず意味がある。なぜなら、誰かの頭の中だけに存在していた概念が他者も共有可能なフォーマットに変換されたということだから。今は読まれないかもしれないけれど、この先読まれるのかもしれない。やはり読まれないのかもしれない。どちらにしても文字は残る。文字は人間と違って時間と空間を超えられる。

誰かと比べて自分の文章が下手だとか、ここが不足していると思ったら、補完するために工夫したり知恵を絞ったりするのは間違っていない。見えている「良い文章」に向かって邁進するのみ。その結果で反応があるかないかは関係ない。自分が設定した「良い文章」に近づけるかどうかが課題。

逆に自分の文章が最高最良で何も手を加える必要はない、皆がこの文章を理解していないだけだと思ったら、それも間違っていない。自分が信じる「良い文章」をすでに実現した人として、自信を持って書き続ければいい。

たぶん悩みの原因は、物差しを設定するときに他人の物差しの作り方を気にしてしまうこと。

一度「これが自分にとっての良い文章だし、自分もそう書けるようになりたい」もしくは「これが自分のベスト」と思った後で「いや、でもこの物差しって人と比べたら変なのかな、レベルが劣っているのかな」と考えるから迷う。物差し自体を疑うからフラフラする。

一つ物差しを決めて、それと自分の文章を比べて「劣っているな」と思ったら文章を直せばいい。でも「この物差しが間違ってるのかな」というのはない。どの物差しもアリ。物差しの優劣は存在しない。

仕事とプライベートの文章は分けて考える

私の場合は、ライターという書く仕事をしているために考え方の整理整頓がややこしかった。今まで「良い文章」を考えるときは「仕事の文章もプライベートの文章も自分という一人から発生するのだから、ちゃんと統一しなければ」という無意識が悩みの根っこにあったように思う。

でもそれは分けていいと気づいてからちょっと楽になった。目指す方向が違うのだから物差しは2つ。仕事ではやはり反応を意識した分かりやすい文章が求められる。プライベートは反応を気にせず「良い文章」と思ったものを取り入れて、血肉化する。

仕事での物差しに合わせてプライベートの文章を捉えなくていい。逆に、プライベートで自分が大事にしたい物差しはそこで大事に抱えればよいのであって、人格統一の強迫観念に追われて仕事にまで応用させなくていい。別々の役割を持つのだから、別々の物差しで別々のものを目指す。

自分なりの「良い文章」を

世の中にはいろんな形の「これが良い文章!」という物差しが提示されている。本もたくさん出ていて選ぼうとすると迷ってしまう。自分もその中の一人だ。

改めて「良い文章」を考え直そうと思ったのは、まさに自分にとって「素晴らしい」と思った文章があまり世間的には「ウケていない」と感じたからだった。どっちの感覚が正しいのか。

少なくとも今年は「良いと思った文章をどんどん自己インストールして、意識してアウトプットする」のを目標にしようと思う。その基準を人がどう評価するのかは置いておいて、読んだときに「これいいじゃん!」と思った感覚を大切にする。本を買って読むだけでなく、書き写して見直して、構成や語彙や文体もちゃんと確かめてみたい。

究めようとしているのは誰のものでもない「自分の文章」。自分の感覚を信じなくてどうする。


★翌日に続きを書きました

またしばらく考えて、もう少し芯の部分をまとめました。


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