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小さな指紋

 ふと目が覚めて、ぼんやりとした頭のまま眼鏡を探す。部屋は暗く、妻も子どもたちもまだ寝息を立てている。10ヶ月になる息子がうつ伏せになっていたのでそっと仰向きにさせて、寝相が悪い4才の娘はなぜか布団の外にはみ出して走るような格好で眠っていた。
 子どもたちを寝かしつけるつもりが、いっしょになって眠ってしまったようだった。布団と壁の間に、ようやく眼鏡を見つける。それをかけて寝室の時計を見る。4時を少し過ぎている。時計が霞んで見える。また寝るにも早起きするにも中途半端な時間だ。横たわったまままだぼうっとする頭で少し考えてから起きることにする。妻が起きないようにタオルケットを掛け直し、部屋の扉を静かに閉める。

 仕事中にデスクの前でウトウトしていたら、そんな夢を見た。夢というより、実際に昨夜の出来事だったので、夢というより直近の記憶のリマインドに近かった。
 わかりやすく船を漕いでいたのだろう、周りからクスクス笑い声が漏れ聞こえた。小さく咳払いをし、寝ていません考え事をしていただけですアピールをしてみたが、もうあまり効果はないだろう。恥ずかしさを押し殺すように席を立ってトイレに行く。まだ眠気まなこのせいか、目が霞んでいる。途中、同僚にすれ違って挨拶される。何かのプロジェクトの進捗を確認されたが、うやむやに答えて通り過ぎた。

 トイレで腕と背中を伸ばし、口をゆすぎ、うがいをした。鏡には冴えない顔が映っている。試しに大げさに口角を上げ笑ってみる。バカみたいだ、と思う。個室から水が流れる音が聞こえて、慌てて素の顔に戻す。個室から見知らぬ男が出てくる。違うフロアの人間だろう。お互い気まずい雰囲気で洗面台の前に並び立つ。男はいそいそと手を洗い、手も拭かずにトイレから出て行った。

 小さくため息をついて、眼鏡をかけ直す。もう一度鏡に映った自分の顔を見る。まだ眠いせいか自分の姿が霞んで見える。おかしいなと思って鏡に顔を近づける。それでもまだ自分は霞んでいる。
 そこでようやく、眼鏡が曇っていることに気がづく。指紋がやたらとついていた。思えば朝の通勤からやけに視界が白っぽいなと思っていた。ものもらいかなと思って眼鏡を外し目をよく見て見たりしたが、腫れてはいなかったのでそのまま気にしなかったのだ。

 犯人はおそらく10ヶ月の息子だろう。だいたい先に寝てしまう自分を起こそうとして、眼鏡をペタペタと弄ぶ癖があるのだ。あまりにも無邪気に眼鏡に触るものだから壊れてしまいそうで何度かたしなめたけれど、レンズの部分だけやたら触りたい彼の癖はまだ治っていなかった。

 たくさんの指紋で曇った眼鏡を、よく確認してみる。両方のレンズに小さな小さな指紋がたくさんついていた。小さくてもしっかりと木の年輪のような指紋になっている。この小さな指紋から息子の寝顔を思い出す。ふと心が緩む。穏やかに、なめらかになる。

 Tシャツの裾を伸ばして眼鏡を拭く。何度か拭くうちに、眼鏡はクリアに見えるようになった。

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