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「映画えんとつ町のプペル」と西野亮廣のエゴイズムの正体

おはようございます。アルキメデス岡本です。

ちなみに今日の朝食はおでんでした。(笑

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さて、これまで映画えんとつ町のプペルについてあれこれと考察してきましたが、今回は視点を変えて<行動心理>の側面から考えたいと思います。(終わるようで終わらない)

■評価が分断される理由とは

この映画の評価は信者とアンチの間で激しく評価が真っ二つに割れている状態ですが、何故このような現象が起きているのでしょうか?

私の仮説はこうです。

「映画えんとつ町のプペルのラストを希望とみるか、みないかで価値観の衝突が起きている。その要因は西野亮廣のエゴイズムにあるです。」

特にラストシーンでルビっちが街の煙を爆破し星を観に行動に出ますが、この行為を賞賛する人がいる一方、それは街の治安を破り住民に損害を与える行為だと避難する声が目立ちます。

作者は星を観る行為を[希望]と捉えていますが、この映画に違和感を覚えた人の多くはこの行為に[不快感]を感じているようです。

この映画は夢を語ったらみんなにゴミ人間扱いされ叩かれて1回死んだけど、ゴミ人間プペルとして復活してみんなに星(希望)をみせたよっていう西野亮廣の実体験を描いた物語です。

しかし、みせたのは本当に<希望>だったのでしょうか?もしかしたら、これは自分の夢を叶える為なら自分勝手に何をしても良いというただの<エゴ>だったのではないか。

その背後には、【西野亮廣のエゴイズム 】が大きく関係していると考えられます。

エゴイズムとは、利己主義と同義であり自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方。それにより、他者が不利益や損害を被ることも少なくない。

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ゴミ人間のエピソードは今までの苦難を乗り越え、仲間を集め夢を信じて最後まで諦めずに戦う男の覚悟です。

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しかし、自己実現という夢を叶える為なら他者を犠牲にして良いのか?

真面目で几帳面、自分を犠牲にしてでも他人のためを思うのが、従来の日本人像でしたが、ここ最近の日本人は自己実現という名のエゴに囚われ劣化しているのではないか。

事実、実際の評価や興行収入に見合っていない評価や行動が目立っています。その証拠に、映画.comのアクセスランキングも鬼滅の刃よりも上位になっており明らかに不自然です。

一言で言えば〈肥大する自己愛〉が、真犯人ではないかと…

例えば、安倍晋三の桜を見る会における〈自己愛性パーソナリティ障害〉等にみられる他者への罪悪感の欠如、自分の保身の為なら平気で嘘をつくサイコパス傾向が確認された。

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自己愛性パーソナリティ障害の症状
・人より優れていると信じている
・権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
・業績や才能を誇張する
・絶え間ない賛美と称賛を期待する
・自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
・人の感情や感覚を認識しそこなう
・人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
・人を利用する
・劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
・嫉妬されていると思い込む
・他人を嫉妬する
・多くの人間関係においてトラブルが見られる
・非現実的な目標を定める
・容易に傷つき、拒否されたと感じる
・脆く崩れやすい自尊心を抱えている
・感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える

これらの症状に加え、自己愛性パーソナリティ障害の人物は傲慢さを示し、優越性を誇示し、権力を求め続ける傾向がある。彼らは称賛を強く求めるが、他方で他者に対する共感能力は欠けている。一般にこれらの性質は、強力な劣等感および決して愛されないという感覚に対する<自己防衛>によるものと考えられている。

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■エゴイズムの正体

では、何故、彼らはエゴイズムに取り憑かれてしまったのでしょうか?

それは、人間の本性は【 性利説 】であると考えています。

「利」というのは「利益」のことです。「利益」というのは「快楽」のことです。ゆえに性利説は、性快説だと言ってもかまいません。

人間の本性は、「不利益(不快)を避け、利益(快楽)を求める」ということです。そこには善も悪もありません。

赤ちゃんは生まれたときに、自分の快楽を満たすためだけに生きていますよね?お腹がすいたら泣くし、眠たくなっても泣きます。泣くというのは、お腹がすいた・眠たいという不利益を避け、自分の快楽を満たしてほしいということです。そこには善意も悪意もありません。

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人間の本性が「不利益を避け、利益を求める」ということは、人間はみんな利己主義者ということになります。

しかし、利己主義といってもタイプがあります。私は3つに区分できるのではないかと考えています。

①犯罪的利己主義

②排他的利己主義

③互恵的利己主義

ひとつずつ説明していきます。

①犯罪的利己主義
これは行動にともない制裁が必要な利己主義ということです。

たとえば、お金が欲しいという気持ちがあったとします。そのために、泥棒したり強盗したりするのはこれにあたります。

②排他的利己主義
いわゆるみなさんが想像する利己主義です。自分の利益だけを優先するということですね。

たとえば、電車に乗っていて混んできたとします。隣の席に他人が座ってほしくないから、自分の荷物を置いて席に座れないようにする。犯罪とまではいきませんが、不道徳ですよね。こういうのが、排他的利己主義になります。

③互恵的利己主義
互恵的というのは互いに利益を与え合うこと、分かち合うことという意味です。つまり、WIN‐WIN(ウィンウィン)の関係がこの互恵的利己主義になります。

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性利説から人間というものをみると、いろいろなことが解釈できるようになります(以下は日本文化史研究家のパオロ・マッツァリーノさんの「人間いいかげん史観」を参考にしています)。

まず「正しくて不快なこと」より「正しくないけど気持ちいい」を選ぶということ。

国会議員やタレントや一般の人までどうしてあの人が?というニュースがありますね。

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あれも性利説的人間観でいえば、とくに違和感はないのです。人間は正しくないけど気持ちいいことをする生き物なんです。人は理性ではなく感情で判断するのです。

また、人間は「難しいこと・苦しいこと」ではなく「簡単なこと・楽しいこと」を選びます。

これも自然の摂理なんですね。難しいことに快楽を感じる人は少ないでしょう。大半の人は簡単なことを好みます。ゆえに、難しいことに挑戦してこそ人間だとか、努力してこそ人間だというのは自然の摂理から反しています。こんなことしてたら、そりゃストレスで過労死やら精神疾患にもかかります。

元来、人間には「理性の血」と、動物として有する「動物の血」が流れており、この「動物の血」のコントロールがきかなきくなると、人間の悪い部分や弱さが現れてしまうと考えられています。

人間の獣の本能から目を背けず、いかに理性とのバランスをとるか?

人間の本性”に潜む動物の血。この醜さを身を以て感じ、不条理をいかに思い留まるか、そこに人間として理性を磨く鍵があると思います。

■まとめ

という訳でまとめます。

・映画えんとつ町のプペルは西野亮廣のエゴイズムの結晶である。

エゴイズムとは、利己主義と同義であり自己の利益を重視し、他者の利益を軽視、無視する考え方。それにより、他者が不利益や損害を被ることも少なくない。

・その背後には<肥大化した自己愛性パーソナリティ障害>が存在しており、西野亮廣にはその特徴が確認される。

・エゴイズムの正体は性利説であり、人間の本性は、「不利益(不快)を避け、利益(快楽)を求める」ということです。そこには善も悪もありません。

・人間は「正しくて不快なこと」より「正しくないけど気持ちいい」を選ぶということ。つまり、映画えんとつ町のプペルでのルビっちの行動は、「正しくて不快なこと」より「正しくないけど気持ちいい」を選んだ。すなわち、西野亮廣のエゴイズムである。

・利己主義には3つのタイプがあるが、西野亮廣のエゴイズムは、一見、WIN‐WIN(ウィンウィン)の関係③互恵的利己主義に見えるが、実際は自分の利益だけを優先する②排他的利己主義に陥ってしまっている。

・その結果、西野亮廣の行動が不道徳と受け取られアンチ(モラルの高いまともな人々)からの攻撃が活発化し、信者とアンチの間で評価が分断されている。

・エゴイズムは鬱屈した精神の解放を与えるドーピング効果があり、人々に利益(快楽)をもたらすメリットがある一方、社会秩序を破壊し分断させる悪影響がある。

・つまり、西野亮廣=ドーピング=気持ち悪いサイコパスです。(笑

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・人間には「理性の血」と、動物として有する「動物の血」が流れている。人間の本性”に潜む動物の血。この醜さを身を以て感じ、不条理をいかに思い留まるか、そこに人間として理性を磨く鍵がある。


ほなまたお会いしましょう。バイバイ~♪

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