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資本主義、社会主義、民主主義を読んで〜前編〜

どうもこんにちは。
マイケル・ジョーダンです。

さて、今回はヨーゼフ・シュンペーターが記した20世紀の金字塔『資本主義、社会主義、民主主義』についてです。

以前から、シュンペーターの本を読もうと思っていましたが、中々、読み始められなかったのですが、ようやく1巻を読み終えました。とにかく分厚かったです(汗)

2014年に発行されたこのバージョンは、1巻、2巻の構成になっております。
本書『資本主義、社会主義、民主主義」は、決して一つの領域に収まるものではありません。 従来の垣根を越えて、経済学、歴史学、政治学社会学、哲学、法学、ビジネスの世界を自在に行き交います。シュンペーターと同世代の思想家で、これほど膨大な知識を融合して、このような一つの独創的な世界に統合する訓練を受けた人はそしてそれを実現できた人は極めて稀でした。また、これほど深遠な書物を書く人もいないでしょう。

シュンペーターの激動な人生の中で残されたのは、仕事に没頭する習慣と、資本主義の全貌を理解しようという執念だけでした。 

本書には強烈なメッセージが込められていますが、その多くは行間に現れます。 読み取れるかどうかは読者の皆さんにかかっています。

なぜ今、シュンペーターなのか?

シュンペーターといえば、経済学者、イノベーションというイメージが強かったのですが、この本を読み進めていくとこれまでの印象とはガラリと変わって、社会主義者のイメージが強まりました。

この本の構成は主に以下のようになっています。

1章マルクス主義の評価

マルクスの資本論は論理的に問題も多いのだが資本主義のメカニズムを概ね言い当てており、その洞察力は評価できる。

2章資本主義のメカニズムと限界

資本主義のメリットと限界について分析。投資の飽和によりイノベーションが起きにくくなり、自然と社会主義化していくというのが結論であり社会主義の方が効率性と生産性が高まる。

3章社会主義は機能するか

社会主義システムがどのように機能するか分析。資本主義システムから緩やかに社会主義システムに移行するパターンなどを比較している。

この本が執筆されたのが、1938年〜1942年であるが、今現在の資本主義社会の限界を既に予見しており非常に興味深い内容だった。ところどころ、当時の時代背景に詳しくないと理解出来ない部分もあったが、優れた分析力と洞察力で資本主義システムの終焉から社会主義システムへの移行を論理的に解説している。シュンペーターの予測が全て当たっている訳では決してないが、今の時代においては示唆に富む内容になっている。

特に資本主義による一旦の発展がなされ、機が熟した段階での社会主義化という部分は、これからの人類と世界にとって持続可能な社会を目指す為のコンセプトになり得るだろう。

既に中国は共同富裕というコンセプトに舵を切った訳だが、中国共産党が今後、資本主義と社会主義のバランスをどのように取っていくのかが興味深い。また一方で、グローバリズムからソーシャリズムへの流れが強まっている今のアメリカの行方からも目が離せない。

新しい資本主義の潮流

これらの世界的潮流はコロナパンデミックによって加速された事は間違いないが、環境問題や人口減少、資源エネルギーなどの根本的問題と資本主義の構造的欠陥によるところが大きい。同様に、現在の日本も岸田政権の下で、新しい資本主義というある意味、社会主義への回帰現象が起こり始めている。

ただし、岸田政権の目指す新しい資本主義では、科学技術・イノベーションによる成長と分配を目指しているので、もちろん、中身は新しくも何もない。「成長を実現し、それを分配する」ということにすぎない。これまで、すべての政権の成長戦略が成長を実現したことはないから、成長から分配という戦略であれば、成長が政策的な戦略では実現できないから、今回も何も期待は出来ない。

問題は、キャッチコピーが、GDPと株価(アベノミクス)から「新しい」資本主義に変わったことだ。つまり、時代は、今までと違う資本主義を求めているということが、政治家にすら伝わってきた、ということであり、いよいよ社会は、資本主義から次の「新しい」時代に向かっている、向かいたいと思っている、ということを示しているのである。

この「新しい」とは何を意味するのか?

岸田政権の政治的な主張は、新自由主義からの決別ということらしいが、そもそも新自由主義という言葉自体が政治的で、学問的にも経済的にも何の意味もない。要は「今までの利益、株価一辺倒から社会、環境とのバランスを重視した経営への移行、競争至上主義から長期的な持続性重視への緩やかな移行」ということだ。

リーマンショック以後の、強欲資本主義批判は、ウォールストリートとメインストリートの格差、トマ・ピケティの格差拡大批判と、格差攻撃に向かっていたのだが、それがここ5年は急激に環境・持続可能性という方向に舵が切られている。格差といまだに騒いでいるのは日本ぐらいで、こちらも格差是正と言いながら、欧米のように富裕層から奪ってくるのではなく、分厚い中間層を作り経済成長を取り戻す、という方向で議論されている。
だからこちらは、「新しく」もないただの資本主義である。起業家とは何か。利益を独占するために、既存の利益独占者を倒そうと立ち上がる人々である。しかし、彼らは成功すれば新しい独占者になる。大企業からプラットフォーマーへと、GAFAのようにさらに独占力を強めるだけである。資本主義はそのまま拡大するだけであり、格差はさらに拡大する。

一方、中間層を増やすというのは、これらの独占者、大企業にせよプラットフォーマーにせよ、それらを利用できる消費者と労働者を増やすということにすぎない。低所得者が多いと、独占者は彼らの消費から利益を得ることができない。だから彼らにも、必需品以外の嗜好品を買わせてマーケットを拡大しよう。スマホを世の中の全員に持たせよう。そして、消費を把握し、さらに贅沢を覚えさせ、ゲームをやらせ、消費を増やさせようする以外に方法はない。

これは21世紀に始まった資本主義、BOPビジネス、ボトムオブピラミッドまたはベースオブピラミッドという概念であり、要はバブルである。

そもそも、資本主義とはバブルであり、バブルも資本主義も、人々と物とそして社会を流動化して、動員するシステムである。分厚い中間層というのは、動員する消費者と労働者を増やすためのものである。すなわち、これらは、ごく普通の資本主義である。これまでの路線を強化するだけのことである。あるいは高成長期の動員メカニズムの復活を目指すことである。世界は、アフリカ、貧困層という最後のフロンティアまでを食い尽くしてしまったため、最後の手段、「新しい」資本主義という名の新しいESGバブルを作り、日本は、古きよき時代の普通のバブル、普通の資本主義の再興を目指しているというのが、今なのだ。

新しい資本主義の限界

しかし、これは理論的に破綻している。なぜなら、資本主義が行き詰ったから、新しい資本主義を目指したのであり、それが同じバブルであり、同じ資本主義であれば、持続不可能であることは自明だからだ。したがって、新しい資本主義は実現しない。そして、バブルも新しい資本主義も破綻する。そして、その後にやってくるものは、近代資本主義の前の世界、中世だ。そして、それは「新しい」中世である。

「新しい」中世とは、持続的な世界である。

近代資本主義が、流動化、市場化、変動、拡大、バブルという世界であるのに対して、「新しい」中世は、固定化、関係取引、安定化、日常の繰り返し、循環経済という世界である。資本主義がグローバル化、世界市場の一体化、膨張の世界であったのに対して、「新しい」中世は、ローカル化、多様化からの独自化、持続的な安定状態の世界である。

イノベーションという名の下、新しいぜいたく品(嗜好品、エンターテインメント品、装飾品、ブランド)を次々と繰り出し、欲望を刺激する世界から、必需品の繰り返しからの改善、改良、高品質化により、質の高い必需品に囲まれる世界になる。

過去の中世においても、農業生産力の上昇、開墾、新しい農法の発明、さまざまな技術の発明の元が蓄積された時代であった。それが、1492年以降、大航海時代が幕を開け、拡大、争奪、支配、膨張、戦い、競争の世界の中で、流動化が進み、その動員により、バブルが花開き、刺激的な消費による快楽を享受してきた。それを使い尽くしたので、今度は、再び蓄積の時代に戻るのである。

つまり、新しい資本主義の行き着く先は、緩やかな社会主義への移行なのである。


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