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える知っているか?死神(ぼくら)には「穴ぼこ」がある

 文章を書こうと思う。理由はない。目的もない。とりわけ、着地点かなんかも検討もつかない。世の中には二種類の人間がいる。目的を持って文章を書く人間と、書きながら自己に眠る目的に輪郭を与えていく人間だ。どうやらぼくは後者らしい。

 冒頭でこんなことを言うのも申し訳ないが、この記事に読む価値はない。まだ書いてないけれど確信できる。結論が何もない予定だ。判断がなされない予定だ。そういう後味の悪さも悪くない味なヤツだけ歓迎する。そうじゃないならLINEマンガを読んだほうが絶対にいい。

 自己紹介はしない予定だ。強いていうのであれば、狼のキグルミを着たタヌキだ。それに過ぎない。それ以上でも、以下でもない。普段は、なんとか「社会」という得体の概念に適応していないようで適応しているフリをしている。もちろん、いささか疲れる。だから、匿名的な存在である「狼だぬき」が生まれてしまった。

 会話が苦手だから、書くことにした。でも、得意なフリをしている。相手の発言を聞き、どんな意図で何を目論んでその言葉と構成に行きついたのかがだいたい分かる。高校の時、現代文の点数は悪くなかった。だから話しが得意なフリはできる。受信にはさして問題がない。問題は発信だ。それも、オーラルコミュニケーションにおける発信。どうやったって、自分の考えていることの1%も伝わる気がしない。SNSの発展で、もっというとTwitterのせいで、現代人はショートコンテンツに慣れすぎた。ぼくの内省はショートコンテンツにはなりえない。だから、文章を書こうと思う。

 会話は遮られるから嫌だ。ぼくの中にある膨大な前提と論理、それから帰結のプロセスは短文にすることができない。必ず飛躍が起こる。「きんだいごうりしゅぎ」のせいか何か知らなけれど、社会には飛躍を嫌う人が多いらしい。質問の皮をかぶったマウンティングがぼくの繊細なOSを殴ってくる。刺してくる。

 その時、彼は応答を求めていない。一方的な質問、なぜか返答を想定していない質問という、世界一矛盾した営みを生きがいにしているからだ。分かろうとしない姿勢そのものに。ぼくはそっと心を閉ざす。というか、2,3言話せば彼が該当者かどうか分かる。現代文は得意だったからね。とにかく、こうしてぼくも彼らを分かろうとしなくなる。分断。断絶。また、絶望。だから会話は嫌なんだ。

 一方、文章は遮られない。確かに、読み飛ばしや読み手のリテラシー欠如、何よりぼくの表現技術の欠乏によって、ぼくの想定していた仕掛けが作用しないことは往々にしてある。それでも、話すよりよっぽどぼくの「きもち」「しこう」「てつがく」「せかいかん」を丁寧に表すことができるんだ。話すときには、ぼくは自分で自分の欠落をどうにか見せないように、その欠落の「穴ぼこ」の周りの警備にあらゆる労力を割いている気がする。何かの間違いで、思いもしなかった角度で相手に穴ぼこを発見され、ズカズカと侵入されることが許せない。だって彼らはいつも土足だろう。親の顔が見たい。親は欧米育ちかい。人の家では靴を脱げ。

 書くのはそういう意味でやはりいい。突然の侵入を警戒する必要が全くない。書くとは、孤独の表現だから、書くとは、自己との闘いだからだ。ぼくは文章を書くとき、外的な侵入者の警備員をほとんどゼロにしてしまう。そして、ゆっくり、一歩一歩、自分の足で穴ぼこを降りていく。誰ものぞき見も侵入もしてこない、最低限の安心に包まれた旅。欠落的穴ぼこへ。もちろん、靴は履かない。靴下は履く。穴ぼこはあまり手入れが行き届いていないからだ。

 この文章を書いている今も、まさに穴ぼこを一人で降りている。穴ぼこは日常的に降りるようなものではない。一人暮らしの最寄り駅というより、実家に近い。25歳にとっての実家といえば、盆と正月しか帰らない。それくらいの頻度が穴ぼこの役割だ。いや、そう考えると実家という表現もしっくりこない。実家には両親や兄弟などの家族がいることが多い。この穴ぼこには誰もいない。何も無い。穴ぼこは「無い」ことことが唯一の特徴なのだろう。

 ぼくらはいつも「有る」を求める。物も事も「無い」より「有る」ことを志向し、歓迎する。「ありがとう」だって「有難う」だ。希少性のあるもの、当たり前ではないことが「有る」ことに対する最上級の敬意がありがとう。なんだそれは。いつこの言葉を教わったか思い出せない。いい年こいて、うまく使いこなせない。

 そうやって、「有る」を求める癖に、ぼくらは時に自分が「無い」ことに気づく。「有る」ことで自分を規定していたはずなのに、「有る」を積み上げれば積み上げるほど事後的に「本質的には自分には何も無い」ことに気づく。ぼくはあくまで「無い」のだ。「無い」からこそ「有る」を積み上げて、その個人的な空白を埋めようとする。でも、埋まらない。この欠落的穴ぼこが何かによって埋まることはあるのだろうか。それも隙間なくギチギチに埋まり、全ての歯車が違和感無く絡み動力へと変換されるような、純粋な接合。充実。納得。

 しかし、穴ぼこを一人降りるときに気づく。いくらそれまで「有る」を放り込んでみたからといって、その穴ぼこはちっとも埋まっていない。しかも、もし、これから50年や100年、いや1000年以上かけて穴ぼこに物や事を放り投げても、埋まる気がしない。穴ぼこはそれほどまでに深淵で、その深淵さはぼくらに「埋めるべからず」という警告をしているかのような、ひっそりとした闇を提示してくる。穴ぼこ中でぼくは気づく。完璧な無力感。完璧な絶望は存在しない、と誰かが言ったが、完璧な無力感は存在した。穴ぼこと対峙する時、ぼくはそれに打ちひしがられるほか無い。

 一通り絶望した後、ぼくは気づく。そうか、穴ぼこは、欠落的穴ぼこは本質的に「無い」ことをぼくに示すために存在しているのか。穴ぼこは確かに存在している。つまり穴ぼこ自体は「有る」のだけれど、穴ぼこは「有る」ことを通してぼくが本質的に「無い」ことを示唆しているのかもしれない。どうしようもなく我儘な示唆。

 もし、もしそうであるならば、ぼくは行動や思考による何らかの獲得による穴ぼこを埋める作業を直ちに辞めなければいけない。本質的に「無い」ことを提示する穴ぼこに対する失礼に当たる。不敬だ。侮辱だ。穴ぼこの尊厳を踏みにじる行いだ。ぼくにはぼくの欠落的穴ぼこがある。どうやらぼくはそれを「埋める」ではなく「眺める」ことしか、「探る」ことしか許されないらしい。

 話すことは嫌いだ。好きになれない。ぼくは、書くことを通して眺め、探ったぼくだけの穴ぼこを丁寧に描写することしかできない。部分的にからからに乾き、部分的にはじめじめと湿った穴ぼこ。暗く、広い。銀河の端に立たされたかのような無力感。無論、星はない。

 人間には二種類いると冒頭に書いた。後者、つまり書くことを通してしか自己の輪郭を掴むことができないログでナシのぼくは、書くことでしか生きることができないのかもしれない。生かすことができないのかもしれない。書くはいい。ひっそりと自分の穴ぼこを見つめ、探り、それを赦されたラインまで表現することができる。その表現作業を通して、自分だけの世界を構築することができる。侵入者が介在しない世界。書くことは、自分だけの世界をつくることだ。その世界に、誰かを招待することだ。見知らぬ人ではあるが、侵入者ではない不思議な第三者。あなた。あなたと世界の輪郭を共有することができるかもしれない。


やはり、これからもっと文章を書こうと思う。手元のGARAMに目をやり、火をつける。煙を吸う。特有の「パチパチ」という音がする。甘ったるい。どうしようもない商店街のどうしようもない喫茶店。人がいない方を選んで、煙を吐く。文章を書こうと、思う。


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