キャパシティ

「しんどい人が救われるべきだ」の幻想。一体、救われるべきは誰か

 梅雨の浮かない曇り空が影を落とした1ルームの部屋。対抗して、早すぎる点灯。窓を開けると、どんよりと湿った風が入り込む。窓を閉めて、冷房をつける。約1ヶ月続く予定の灰色の空を眺めて、ため息を落とす。毎年梅雨は来るのに、毎年落ち込む。馬鹿みたいだな。そんなもんか。

 目の前で、ハムスターが回し車を休みなく蹴り続ける。「どうして意味もないのに蹴り続けるんだろう?」なんて思って、ハッとする。そうか、ハムスターにはハムスターの正義があるんだ。人間である(あるいは狼だぬきである)ぼくの価値判断では評価することができない彼女だけの正義があるんだ。正義に価値の優先順位はつけられない。正義だけは公平で、公正で、平等な概念だ。そう、信じたい。

 父親は、大手メーカーに勤務していた。日中起業家をしている志向性のぼくからすると、彼の生活は退屈に極みそのものに見えていた。毎週日曜日の晩に彼は、辛口の日本酒を片手に明日からの仕事を嘆いた。月曜日を恨んでいた。そうなりたくない、という反面教師がぼくを就活市場から遠ざけたのかもしれない。

 一度、母親が「そんなに言うならやめたらええやん」と酔った勢い半分、真剣な忠告半分で口にしたことがある。じゃあ家と車のローンはどうするんだ、子どもたちの学費はどうするんだ、といったようなことを父親は返した。ちっともつまらなさそうに見える父親にも、守るべき正義があった。ぼくは、馬鹿らしく見えていたその正義によって生かせてもらった。

 大学時代、居酒屋でバイトをしていたことがある。フリーターの先輩がいた。仕事の合間から休憩中、なんなら帰り道まで、その店のシステムや店長の愚痴を垂れている人だった。2つか3つ歳上だったかな。覚えてないや。興味もないや。

 彼は店長の愚痴を垂れながらも、週6日はその居酒屋で働き、焼き場でおいしい焼き鳥を提供し続けた。彼には、焼き場でのポジションが守ることが存在意義を守る一つの方法だったのだろう。毎週日曜日には協会に例外なく通うクリスチャンように、焼き場に人生の意味と救済を求めた。事実、あれほど手早く大量の焼き鳥を質高く提供できる人間は彼以外いなかった。愚痴と同じくらい、大量で良質だった。連勤記録が、彼の一つの誇りだった。焼き鳥のクオリティとスピードが、彼の正義だった。

 プロ奢ラレヤー氏がフェミニズム関連で炎上しているのを見かけた。プロ奢氏は一つの認識を主張し、それにフェミニストの方々が認識を重ねて主張し、それらは対立の構造となった。それに、女性の権利を主張するというテーマ柄、どうしてもプロ奢氏が悪いような感じに見える。本人が気にしていないのはSNSを見るより明らかだが、なんだかな、と思う。「守られるべき権利」と「あまり守られるべきでない権利」を区別しちゃいけないよな。みんな救われるべきなんだよな。本当は。

 こういう画像もTwitterで見かけた。一本の矢が刺さった女の子を、気にかける友人らしき女子。しかし、その女子は実はもっと多くの矢を抱えて生きている。そのさらに外側では、目も当てられないほど満身創痍の抽象的な形をしたキャラクター。たぶん、象徴にすぎないんだろう。

 この絵からは「本当に救われるべき人は誰だろうか?」みたいな投げかけが浮かび上がる。もっとも心配されているのは、たった一本の矢が刺さっている女の子だが、もっと辛い人がいるのでは?もっとしんどい人がいるのではないか?という揶揄かのように、手を差し伸べる女子の背中には多くのやが突き刺さり、抽象的なキャラクターはボロボロに描かれている。

 でも、どうなんだろう?「本当に救われるべき人」なんて、いるのだろうか?「救われるべき人」は常に相対化され、「より救われる人べき人」「一番救われるべき人」なんてものが存在してしまってよいのだろうか?確かに、受けている矢の数は異なる。そこに大小は確かにある。しかし、それをもって「矢が多い方がしんどい」や、「だから本当に救われるべき人がいる」という主張は成立しうるのだろうか?矢が少ない方は我慢する地獄しかないんだろうか。

 おそらく、この絵から受け取ることができる教訓は、今挙げたものと全く逆だろう。つまり、「救われるべき人」なんて特定のカテゴリーはあり得ないという教訓だ。矢が多いから救われるべきなのではない。それぞれにそれぞれの事情があり、正義がある。守るべきものがある。それはどんな矢によって崩され、どれだけ当人にダメージを与えるかは、本人以外が計り知ることはできない。決して。

 世界は一つではない、というのが狼だぬきの主張の根本である。つまり、一つの大きな世界を70億人が共有しているわけではなく、70億人存在するとそれぞれが70億通りの固有の世界を認識している。世界は一つではなく、少なくとも70億存在する。70億の組み合わせで編み込まれる世界を計算すると、とても義務教育レベルの数学力じゃ対処できなくなる。電卓があっても難しいだろう。世界は多く、複雑なんだ。

 回し車に振り回されているように見えるハムスターも、ローンや体裁など社会の回し車に辟易しているように見えた父親も、居酒屋の焼き場と連勤記録を守り続けたバイトの先輩も、フェミニストも、プロ奢も違う世界を認識しているのだ。違う理想を掲げ、違う価値観を持ち、違う正義を守ろうとし、違うシステムを機能させて生きている。ぼくらがなかなか分かり合えないように思えるのは、「お互いは思っているより違いすぎる」からだ。好きなものが何から何まで一致している気がする二十年来の親友同士だって、何一つ分かり合えちゃいない。

 しんどい人が救われるべきなんてのは幻想に過ぎない。日本の相対的貧困の子どもを助けようと声をあげると、アフリカの絶対的貧困ライン下で生きる子が浮かび上がる。逆に、意志をもって海外途上国支援をしようと活動すると、「まず日本のしんどい子をどうにかしろよ」なんて言われる。ここに出てくる登場人物は言わずもがな、異なる世界で生き、異なる正義とルールで生きている。キャッチボールをしたいのではなく、サービスエースを続けたいだけだ。対話可能性は皆無。途方も無い世界だ。


 だから、安心してほしい。あなたがどんな人生を生き、どんな嗜好で何を大切にしているかに関係なく、正義は公平だ。救われるべき人、なんて存在し得なくて、みんな救われるべきだ。お互いがお互いを救いあう世界を希求することができるはずだ。少なくとも、「救われないな」と思うあなたのためにこの文章を書いた。だから何度でも言おう。みんな、救われるべきなんだ。

 そしてぼくはこの文章を、誰よりも自分を救うために書いている。ぼくも、等しく、救われるべきなんだ。だから、一緒に救われよう。そういう希望を持って、やさしく生きよう。さあ、行こう。

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