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物書き的な視点、その意味のなさ

「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」 (『職業としての小説家』村上春樹 )

 物を書くというのは、話すに足りない、些細でどうでもいい世界の変化をなるべく丁寧に描写し、それが暗示する心の繊細な機微をできるだけ伝わる形へと変換することだ。海外旅行で使う、電圧変換プラグのように。一方にとって意味があるものを、他方にも価値ある何かへと変換させる手続きのプロセスと結果である。部分的に。

 noteに文章を書き起こすようになって、6日目になった。夜が深まる頃に、絶望を表現するエネルギーが高まる関係で、カレンダー的には6日連続ではない。ぼくの体内のカレンダーでは、6日連続。重要なことは、自分自身のルールとシステムに沿っているかである。

 もともと、人より文章を書く方ではあった。しかし、ここまで個人的な内容を、精神的欠落を中心に、5つも文章を書き起こすことはなかった。しかも、具体的な話はほとんどせず、命題について淡々と書き記すことなどあるはずもなかった。普段書くことといえば、セールスレターとか、もっと啓蒙的な意図をもつブログとかだ。資本主義に適合したフリをして生きながらえているから、仕方がない。ああ、つまんねえ世界。

 ところで、このように1週間弱に渡って毎日、精神的欠落を文章に書き起こす中で気付いたことがある。物書きをすることは、視点が変わることだ。村上春樹の言葉を借りれば、「多くを観察し、わずかしか判断を下さない」人間に徐々に変化して行くという実感だ。

 例えば、商店街。圧倒的引きこもり気質なぼくは、夜に出かけることは殆どない。昼でも部屋の中にいて、精神だけどこかに飛ばして生きていたいのに、夜に外出なんてもっての外だ。と、思いきや物書きは違う。昼の商店街の生活感を一掃した夜の商店街の廃りは、憂いを溜め込み書き起こすのに最適なのだ。

 午前2時すぎに、その大きな体を引きずってゴミ収集車がやってくる。進んでは止まり、中継地点でゴミを次々と体躯に補給していく。どれだけ量を詰め込んでも、噛み胃袋へ誘うスピードは変わらない。その機械的で一定のリズムは、眺め心地の良さすら与える。アウシュビッツのガス室に順番に収容されるユダヤ人のような機械的で無機質なリズム。昼では気づかない物書き的発見。煙を吹きながら眺める。意味もなく。

 例えば、川。これもまた、夜の川だ。ジッポとガラム、たまにハイボールだけ携えて絶望しに行く。手すりに胸部をあてがい、両の手を川の方へ投げ出す格好で景色を眺める。川の流れと、その奥、大阪の街に広がる残業光を網膜に形式的に収めながら、形而上的なことに思いを巡らせる。右手のガラムの煙を空気と少しずつ混ぜ、ゆっくりと吐き出す。「ぽちゃん」という音。予告もなく。大阪の工場による汚染のせいか、どちらかというと汚い川で不規則に魚が跳ねる。そのリズムはひどく不規則で、前衛的なコンテンポラリーアートのような不揃いさを感じさせる。物書き的発見。

 こういった細かい、小さい事象へと人は目を配らない。物書き的な視点を持つ人にしか、重要な意味を持たないどうしようもない事象なのである。それを記憶に留めたからといって、給料があがるわけでもなければ、嫁の料理の腕があがるわけでもない。もちろん、可愛い彼女もできないし、総理大臣になんてなれるわけもない。ごめんRADWINPS。総理大臣なれなかった。

 そういった一見なんの意味もないものを拾い集めて、言語という方法を持って記述して行く。たちまち、意味のないものたちは、「意味がありそうな」テキストへと形を変える。そうだ。正直に言おう。結局意味はない。加工前も、後も変わらず。

 思うに、「あらゆることは繋がっている、意味がある」というような考え方は、物書き病に対する処方箋にすぎないのだろう。意味がないものを集めて意味あり気にしたがる物書きの言い訳のために用意された、鎮痛剤にすぎない。物書き用バファリン。自分の使った時間、それも観察と表現にかけた時間が、誰の意義にもならないことは受け入れがたいからだ。それでも、描写とはそういうものだ。世界とはそういうものだ。

 ぼくは、よほど忙しくならない限りnoteを書き続けられると実感している。書くことに意味と意義を持っていないからだ。あくまで、この文章はぼくが見ている世界と、解釈したそれを垂れ流す水道にすぎない。文章を書くというより、蛇口をひねる。それだけだ。水を出すことに苦労とストレスを感じる人もいまい。惰性で垂れ流しているにすぎない。

 意味や意義を過度に求める時代。規範に制約を受け画一化された社会を抜け出したイノベーターとアーリーアダプターですら、意味と意義を求めすぎる「自己実現の罠」にはまり、苦しむ。世の中は地獄か。自分の哲学で持って判断し、生きる人が増えてもらえれば、意義や意味のない無駄や余白が少しでも肯定される世界へと変われば、少しは絶望は減るなと思う。そうなれば、このアカウントにも意味が見いだせるな、と。あ、意味を求めてしまった。

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