「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)&読みたいことを、書けばいい。」志賀直哉『小僧の神様』篇⑩(第277話)
前回はコチラ
2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
稲造?
新渡戸稲造の『一日一言』だ。
にとべいなぞう?
あの五千円札だった人?
『一日一言』は、二十世紀初頭の代表的文化人、新渡戸稲造による格言集。
1915年(大正4年)に実業之日本社から出版され、12年後の昭和元年までに84版を重ねるほどの国民的大ベストセラーになった。
新渡戸稲造(1862-1933)
12年で84版ってすごい…
まさに「一家に一冊」、いや「一家に二冊三冊」ですね。
新渡戸稲造の本は『武士道』しか知りませんでした。
1915年といえば、『小僧の神様』が発表される5年前か…
この本には興味深い誕生秘話がある…
1913年に旧制一高の校長を辞任した新渡戸稲造は、翌年の1914年7月、郷里岩手で講演ツアーを行った。
しかし、宮古から盛岡へ帰る途中、乗っていたバスが崖崩れに巻き込まれて横転…
負傷した稲造は盛岡の岩手病院に運ばれ、退院後は温泉地で療養する。
その療養中に「ある出来事」を知り、本書の着想を得て、翌年『一日一言』は実業之日本社から出版された。
1914年の夏に交通事故で負傷?
温泉で療養中に着想を得た?
なんだか、どこかで聞いたような…
志賀直哉じゃ。
志賀直哉(1883-1971)
新渡戸がバス事故で負傷した一年前…
1913年の8月、志賀は電車にはねられて負傷…
東京病院に入院し、その後は兵庫の城崎温泉で療養した…
あっ、そうだった。
その出来事から着想を得て書かれたのが、1917年発表の『城の崎にて』よね。
しかし新渡戸稲造の『一日一言』が『小僧の神様』に影響を与えたというのは大袈裟じゃないでしょうか?
大ベストセラーだから、とりあえず読んでみたとか、その程度のことでは?
その意味は『一日一言』の序文を読めばわかる。
序
日々の教訓となる格言を聞いて、一日の精神的な「食料」とすることは、誰にとっても望ましきことであって、外国においては、種々な形において行われている。我が国においても、近来この目的をもって、世に公にされた書は少なくない。私も以前より、自分の助けとなった格言を集めて世に分かちたいと望んでいたが、時間もなく実行しかねていた。ところが、この秋負傷して某所で湯治した際に、思いもかけず、ある青年の痛ましい経験を聞いて、急に本書を綴ることを決心した。
某所で湯治した際に、思いもかけず、ある青年の痛ましい経験を聞いて、この本を書くことを決めた?
某所で鮨を食っていた際に、思いもかけず、ある小僧の痛ましい経験を見て、この小説を書くことを決めた…
みたいじゃん。
「みたい」じゃなくて「そのもの」なんだ。
志賀直哉が語った『小僧の神様』着想の「きっかけ」とは、新渡戸稲造『一日一言』の序文をそのまま拝借したものなんだよ。
そんな馬鹿な…
それだけじゃないわよ。
新渡戸稲造が聞いた「ある青年の痛ましい経験」とは…
志賀直哉のこと。
え?
その通り。
新渡戸が心を痛めた「ある青年」とは志賀直哉のことだ。
『一日一言』は、新渡戸から志賀へのメッセージなんだよ。
マジですか?
でも志賀の事故と療養は一年前のことでしょ?
いくら心を痛めたとはいえ、今さらメッセージをこめた本を書いても意味なくない?
事故と療養の後が本当の「痛ましい話」だったんだ。
東京へ戻って来た志賀は、あの夏目漱石から、天下の朝日新聞に長編小説の連載を依頼される。
漱石のプッシュで朝日に連載するなんてことは、当時の若手作家にとって、憧れの舞台以外の何物でもない。
しかし、漱石の推薦というプレッシャーや家族関係のトラブルもあって、志賀はまったく原稿が書けず、悩んだ末、漱石に連載の辞退を申し出た。
そして、自分を買ってくれた漱石に不義理をしてしまったという負い目と、多くの人々の期待を裏切り、笑いものになってしまったという屈辱感から、志賀はデビュー早々作家活動を休止する…
そんなことがあったんだ…
それは確かに「痛ましい話」だわ…
新渡戸が療養していた時、志賀はとても困難な状況に陥っていた…
だから新渡戸は志賀を励ます思いで『一日一言』を書いたのよ。
ポール・サイモンの、この歌みたいに…
『Bridge Over Troubled Water』Victory Boyd
しかしなぜ新渡戸稲造が志賀直哉のことをそこまで気に掛けたのでしょう?
世代も経歴も住む世界も全く違う二人に、面識があったようには思えないのですが…
志賀直哉はね…
内村鑑三の弟子だったのよ。
かんぞう? カンゾー先生のことですか?
最近の若者は内村鑑三も知らんのか。
新渡戸稲造の盟友にして、日本のキリスト教思想家の草分け的人物じゃ。
新渡戸と内村は「少年よ 大志を抱け」で有名なクラーク博士のいた札幌農学校の第二期生同士。
メソジスト派宣教師のもとで一緒に洗礼を受け、同期のメンバーと「札幌バンド」を結成し、自分たちの教会を立ち上げた…
まさに盟友と言える間柄だ。
ああ、「札幌バンド」って名前は聞いたことあります…
あれは音楽のバンドじゃなかったんですね…
そして内村鑑三は、1900年に日本で最初の聖書雑誌である『聖書之研究』を創刊し、読者の中から熱心な若者を募り、新宿角筈で毎週日曜に開かれる勉強会「聖書研究会」をスタートさせた…
そこに参加したのが、当時18歳だった志賀直哉…
つまり内村鑑三は、志賀の最初の「師」だったの。
志賀は約七年ほど内村のもとへ通い、聖書やキリスト教思想を勉強した。
晩年にはこう語っている。
私が影響を受けた人々を数えるとすれば、師としては内村鑑三先生、友としては武者小路実篤、身内では私が二十四歳の時、八十歳で亡くなった祖父志賀直道を挙げるのが一番気持ちにぴったりする。
そして、内村の話法に心打たれ、深い感銘を受けたことを述懐する。
先生の話でも祈りでも、私が今まで教会で聴いたものとは全然別のものだった。祈りなどは、思わせぶりな抑揚などの少しもない早い調子で、力と不思議な真実さのこもったものであった。また聖書について話される事でも品の悪いセンチメンタルな調子がなく、胸のすく想いがした。私は先生からどういう話を聴いたか覚えていないが、初めて自分は本統(ほんとう)の教えをきいたという感銘を受けた。
思わせぶりな抑揚などの少しもない早い調子で、力と不思議な真実さのこもった語り口?
まるで志賀の文体じゃないですか…
まさに志賀の文体は、内村や新渡戸の影響を色濃く受けたものと言えよう。
札幌バンドの解散後、内村は無教会主義、新渡戸はフレンド派、いわゆるクエーカーに転向した。
どちらも権威や華美な装飾を避け、質素簡潔であること、自然体であることを重視する教派だ。
内村の聖書研究会で、志賀の芸風というかスタイルが培われたのね。
そう。まさにスタイルが。
文体だけでなく、生き方においても多大な影響を受けたことを、志賀は告白している…
私は此夏の講習会から七年余り先生に接して来た。不肖の弟子で、先生にとって最大事である教えの事は余り身につけず、自分は自分なりに小説作家の道へ進んで来たが、正しきものを憧れ、不正虚偽を憎む気持を先生によってひき出された事は実にありがたい事に感じている。又、二十前後の最も誘惑の多い時代を鵜呑みにしろ、教えによって大過なかった事はキリスト教のお蔭といっても差支えないだろう。
相当影響を受けてますね…
しかし志賀は内村のもとへ七年も通ったけど、結局クリスチャンにはならなかったんですよね?
そう。本人も出来の悪い弟子だったと言っている。
だけど内村は、そんな志賀に一目置いていたはず。
でなきゃ七年も通わせてもらえないだろう。
どういうこと?
内村や新渡戸も、師である宣教師の言うことに従わず、メソジスト派から飛び出しているからね。
師の言われるがままになるのではなく、違和感や疑問を持ち続けていた志賀に、どこか若い頃の自分の姿を見ていたんじゃないかな。
きっと内村も、新渡戸に話していたかもしれないわよね…
出来は悪いけど、どこか憎めない可愛い弟子、志賀のことを…
新渡戸と出身地も近いし…
あっ… 新渡戸は盛岡で、志賀は石巻…
同じ三陸地方だわ…
そして、新渡戸の東北講演ツアーがあった1913年(大正2年)の1月に、志賀は初の短編集『留女』を刊行していた。
「留女」とは石巻に住んでいた祖母の名で、この短編集は文豪 夏目漱石によって大々的に賞賛される。
志賀は一躍文学界期待の新人と注目され、すぐさま読売新聞に『清兵衛と瓢箪』が掲載された…
1913年、志賀は新進気鋭の作家として一躍脚光を浴びた…
当然故郷の三陸では、大きな話題になっていたはず…
そんな時期に同地を回っていた新渡戸が、盟友内村鑑三の弟子でもあった志賀のことを、気に掛けないわけがない…
しかも志賀は、処女短編集の中の作品『濁った頭』で、内村鑑三の弟子だった時代の葛藤を書いていた。
師である内村鑑三も、若くて美しい女と再婚した性欲旺盛な牧師「土村真造」というキャラクターで登場させていたのよね。
さらに読売新聞に掲載された『清兵衛と瓢箪』には、新渡戸を髣髴させる人物が登場する…
当時の人なら皆知っていただろうから、気に掛けるのも当然よね。
志賀は新渡戸の盟友内村鑑三の弟子…
ようやく世に出たと思ったら交通事故に遭い、療養後の状態も不安定で、ひどく苦悩していた…
『一日一言』の序文にあった「ある青年の痛ましい経験を聞いて、急に本書を綴ることを決心した」とは…
間違いない…
この「青年」とは、志賀直哉のことだ…
志賀はこれに気付いたってこと?
世間で売れまくりのベストセラー本に書かれている「青年」が自分のことだって…
だから『小僧の神様』でAに「恩を施しては忘れよ:情けは人の為ならず」を実践させたんだよ。
そして「ある青年の痛ましい経験を聞いて」という動機を「小僧」に置き換えた。
しかしAは最初「情けは人の為ならず」を誤解していました。
救いの手を差し伸べたことは小僧のためにならないんじゃないかと悶々とします…
あれはなぜでしょう?
それにも理由がある。
え? どういうことですか?
『一日一言』序文の続きを読めばわかるよ…
世の中にあるこの種の本は、多くはキリスト教的性質を帯びているために、その教理を知らない者には、どうしても理解し難い句がある。また、外国の書をそのまま翻訳したものもあるが、これも、西洋思想に接している人でなければ、理解し難い句がある。本書が、既出の類書と比べて、いささかなりとも特長とすべきところは、文章が簡易な点と短い点である。これは、ひとえに俗耳(ぞくじ)に入りやすいように書いたからで、恐らく、小学校卒業者なら苦しむことなく読めるだろう。
キリスト教や西洋思想は知識が無いと理解するのは難しいので、簡易に短く書き表した?
小学校卒業者なら誰でもわかるように?
これは志賀のメジャーデビュー作『清兵衛と瓢箪』のことを言っている。
新渡戸は「あの小説は、こういうことだよね?」と言っているんだ。
だから新渡戸も同じように『一日一言』を書いた。
「君は本当に瓢箪のことを忘れてしまったのかい? 小説もやめてしまうのかね? 少し落ち着いて考えてみたまえ。この本が少しでも君の力になればいいのだが」と。
そして新渡戸は、苦悩する志賀へのメッセージを、ジョークで締め括った。
「そんなに堅苦しく考えずに、自分が読みたいことを書けばいいんだよ」と(笑)
また短い点については、一日分を声高らかに読んでみても一分以上を必要としない。これは読者が朝食後にそれぞれの仕事に就く前、すなわち食膳を離れる間際に、単独で読み、あるいは家族一同とともに読まれんことを期待したからである。前述の二点がはたして特長というべきかどうかははなはだ疑わしいが、むしろ「特短」というべきものであろう。もし読者がこれ以上の長文のもの、あるいは高尚なものを日々読み得るときがあるならば、願わくば本書を捨てて、他のものでその日の糧を得てほしい。
文章が短いのは「特長」ではなく「特短」…
完璧にスベってるじゃん…
これは新渡戸の親心じゃ。
世間から先生先生と尊敬されとる偉い者が自ら豪快にスベることで、プレッシャーに押しつぶれそうな青年を救おうとしとるのがわからんか?
そんな新渡戸のメッセージは志賀に伝わった。
3年間の沈黙を打ち破り『城の崎にて』で復活した志賀は、新渡戸への返歌、アンサーソングとして『小僧の神様』を発表する。
新渡戸が序文で言った「キリスト教的性質を帯びたものは、その教理を知らない者には、どうしても理解し難い」という問題への答えとして…
そして志賀は、第七場のAの苦悩のシーンで、新渡戸の『一日一言』から「恩を施しては忘れよ:情けは人の為ならず」を使った。
なぜなら、それが「4月23日」の一言だったから。
四月二十三日「恩を施しては忘れよ」
施せし情は人の為ならず
おのがこゝろの慰めと知れ
我れ人にかけし恵は忘れても
ひとの恩をば長く忘るな
4月23日? それが『小僧の神様』と何か関係あるのですか?
もちろんだとも。
「4月23日」って、何の日か知ってる?
え? 何の日だろう…
では解説しよう。
Y夫人の音楽界と、Aの奇妙な細君へつながる、重要なブリッジだ。
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?