カズオ・イシグロ『夜想曲集』より「第1話 Crooner /老歌手」~『日の名残り』徹底解剖・第44話
~~~ 三日目・夜 五島・福江島 ~~~
ガードナーはちゃんとした男だったと思う。
カムバックを果たそうと果たすまいと、私にはいつまでも偉大なる歌手のひとりだ。
・・・・・
ん?どうしたの?
それでおしまい?
ナンテコッタ…
どうした?おかえもん…
西側では忘れられとる老いぼれ歌手を、いまだにスターやと勘違いしとる旧共産圏の田舎モンのハナシか?
ありきたりやで。
往年のスタアの名前が仰山出てくるのはオモロかったけどな…
ヴァカメ…
まんまと騙されやがって…
まったくお前の耳は、目と同様に節穴なんだな。
なんやとォ!
もいっぺん言うてみい!
お・ま・え・の・み・み・は、ふ・し・あ・な・か
しばいたろか!このボンレスハムめ!
もうやめてよ…
こんな真夜中に…
そうだ…
騙されちゃいけない…
ハァ?
「ジャンゴ・ラインハルト」「ジョー・パス」「ジュリー・アンドリュース」「ウォーレン・ベイティ」「ヘンリー・キッシンジャー」「バットマン」「フランク・シナトラ」「グレン・キャンベル」「チェット・ベイカー」「ビートルズ」「ローリングストーンズ」そして「ビング・クロスビー」…
これらの著名人の名前に騙されちゃいけない…
本当に重要な人物の名は、巧妙に隠されているんだ…
隠されてる?
どゆこと?
いや、はっきりとは言えないんだけど…
何かが隠されてるような気がする…
違和感を感じた時は「あとがき」を読むに限る。
翻訳者は『日の名残り』と同じ土屋政雄だろ?
ああ、そうでした…
(パラパラ…)
あとがき、あとがき、あとがき…
あった、これだ…
!
どうしたの?
・・・・・
何か気になることでも書いてあったのか?
「気になる」どころの騒ぎじゃないよな。
ええ…
『日の名残り』と一緒です…
いえ、もっと直接的に書いてあります…
『日の名残り』と一緒?
どうゆう意味?
ほら、『日の名残り』の「あとがき」でも、土屋政雄氏は作品読解のヒントをジョークにして書いていたでしょ?
「食事の話」とか「無修正のエロ本」とか「バットマン」とか「夏と冬を間違える話」とか…
あたかも「あとがき」を「鑑賞手引書」代わりにでもするかのようにね…
土屋氏の「あとがき」とは、作品のガイドブックみたいなものなんだ…
ああ、そうだったな…
土屋氏の「日本のエロ本の黒いボカシが残念な件」は笑えた。
この『夜想曲集』の「あとがき」には、こんなことが書かれています…
カズオ・イシグロが「インタビュー症候群」に陥っている、と…
インタビュー症候群?
ブッカー賞受賞作家でもあるカズオ・イシグロは、その作品が様々な言語に翻訳され、世界中の人々に読まれてる、いわば大作家だ。
だからイシグロは、ひとたび長編小説を発表すると、世界各地をキャンペーンで周らないといけない…
現地メディアの取材を受けたり、現地の出版業界やファンと交流するようなイベントに出席もしなければならない。
だけど、それがイシグロにとってストレスだというんだ。
なぜだ?
自分の作品が、思いもしない「受け取られ方」をしていて、それに当惑してしまうというんだね…
つまり、英語で書かれた自分の作品が現地語に翻訳されると、駄洒落や語呂合わせなどのジョークが失われてしまい、全然違う意味になってしまうというんだ…
なるほどな…
確かに『日の名残り』でも、言葉遊びを使った宗教・政治・人種ジョークがふんだんに散りばめられていた。そしてもちろん下ネタや濡れ場も…
英語に近い西洋言語なら翻訳してもその内容は伝わりそうだが、英語と全く異なる言語である日本語では、ニュアンスを伝えるのはかなり難しいに違いない。
しかも文化背景も全く異なるので、日本人には聖書を土台とするジョークがスッと入ってこない。
欧米人と違い、権威をパロディにすると、日本人の思考はフリーズしてしまうしな…
「日本のエロ本のボカシ」ネタって、日本人の「一番大事な部分をタブーにする」ことの喩えでもあるんじゃない?
お前は鶴と違って「見えてる」な。
子供なのに、たいしたもんだ。
じゃかあしいわボケ。
だけど、この「インタビュー症候群」の話自体が「ネタ」でもあるんだよ。
つまり『夜想曲集』読解のヒントってことだ。
へ?
「駄洒落や語呂合わせが上手く翻訳されずにいて当惑してる」ってことが「ジョーク」だってこと?
その通り。
だって土屋政雄氏の『日の名残り』翻訳版では、イシグロの駄洒落や下ネタの数々が、しっかりと日本語でも表現されていたからね。
ただ、日本の読者がそこを理解できていたかどうかはわからないけど…
まあとにかく、この『夜想曲集』という短編集も、イシグロの「語呂合わせ」みたいな言葉遊びやジョークで満ち溢れているってことを土屋政雄氏は言いたかったんだ。
そういうことが、この「あとがき」に滔々と書かれている…
ホンマかいな?
全然そんなふうには聞こえんかったで。
そんなことないよ。
だってそもそもタイトルが「語呂合わせ」なんだ。
「老歌手」が?
残念ながら日本語訳の題名『老歌手』は「語呂合わせ」になっていないような気がする…
だから「あとがき」で言及される「翻訳に対する悩み」は、ネタ兼ヒントでもあると同時に、ちょっとだけ本音でもあるのかもしれないね。
じゃあ原題の「crooner」が「語呂合わせ」っちゅうことか?
その通り。
そもそも「クルーナー」ってどうゆう意味?
「年老いた歌手」って意味の英語なの?
「crooner」とは「croon(クルーン)」という動詞に人を表す「er」がついたもの…
クルーンと言えば、ワイの好きな巨人にむかし越智という投手がおってな…
そのナイツのネタ、前にやったじゃんか!
ここは佐賀じゃなくて長崎ですから!
誰かそこの鶴のクチバシをひもで縛っておいてくれ。
「croon」とは「抑えた口調で感傷的に歌う」という意味なんだよね。
だから「crooner」とは、そういう風に歌う人ってこと。
マイクロフォンが登場した頃に一世を風靡した歌い方なんだ。以前の歌手は大声で歌わなければいけなかったんだけど、マイクのおかげで「抑えた口調」で歌うことが可能になった。それがセクシーだと大流行したんだよね。
だから近年では「時代遅れの」って意味で使われるようにもなったんだ。「昔の流行歌手みたいな歌い方」ってニュアンスで。
へえ~
なんとなくわかったけど、いまいちイメージが湧かないな…
オイラ、21世紀生まれだから。
「crooner」の代名詞とされているのが、この人だね。
『ホワイトクリスマス』の名唱で知られるビング・クロスビーだ。
この曲のシングルレコードは、世界で5000万枚も売れたんだよ。
Bing Crosby『White Christmas』
ああ、こうゆう歌い方か…
なんかム~ディ~な感じだね。
だけど5000万枚って凄くない?『およげ!たいやきくん』でも500万枚でしょ?
それに昔は今みたいにスマホで音楽聴けないし、1940年代は専用プレーヤーだって普及してなかっただろうから、そうとう桁外れな数字だよね
たぶんレコードプレーヤーを持ってる人は全員持ってたくらいのレベルだと思うよ。
今の感覚でいうと、5億枚以上は売れた感じだろうね。
だから欧米人や音楽好きの人は「crooner」と言われたら、真っ先に「Bing Crosby」の名前を思い起こす。
英語の辞書の多くにもこんな例文があるくらいだ。
Bing Crosby was one of the greatest crooners.
ビング・クロスビーは偉大なクルーナーのひとりです
なるほどな…
だけどこれが『夜想曲集』と何か関係あるのか?
「Bing Crosby」という名前は「bing cros by」と読むことができる…
「cros」は「cross」、つまり「十字架」のことだね。
そして「bing」という単語には「刑務所の独房」という意味があって、そのほかにも「ふざける・バカ騒ぎをする」という意味の言葉「binge」の語源としても知られている…
せやからマイクロソフトの検索エンジン「BING」は、中国で禁止されたんやな。
「使うたら刑務所行きやで」っちゅう皮肉や(笑)
それもあるかもしれないけど、そもそも中国語で「bing」とは「必応(必ず叶う)」って意味なんだよ。
もともとマイクロソフトは中国市場を意識して「BING」と名付けたと言われている。
「有求必応」、つまり「求めれば必ずかなう」って意味でね…
だから「Bing Crosby」を、土屋氏のいう「他言語への翻訳」で読み解くと…
十字架によって…
必ず叶う…
だな。
しかもそれだけじゃなく「crooner」には、もうひとつの「語呂合わせ」も隠されている…
ある有名な人物が隠されているんだ…
有名な人?
何それ、教えて~!
この人だよ。
ボッティチェッリ『洗礼者ヨハネ』
洗礼者ヨハネやと?
また始まったな、いつものオッサンの妄想が…
適当なこと抜かすのもエエ加減にせえ。
なんで「crooner」が「ヨハネ」やねん?
適当なこと抜かしてるのは、お前だ。
西洋では、洗礼者ヨハネは「Forerunner」として知られている。
「crooner」と「forerunner」がかけてあるのだ。
フォーランナー?
なんやそれ?
前駆者...つまり「前を走る者」という意味だな。
「イエスが走る前に、ヨハネが走って道を整えた」という意味だ。
それがどないしたっちゅうねん。
「ビング・クロスビー」と一緒だよ。
「イエスの教え」が大流行するきっかけを作ったのは「洗礼者ヨハネ」だった。
「洗礼者ヨハネ」の「悔い改めよ!」が大ブームになっていたからこそ、イエスの「愛の教え」が人々に受け入れられたんだ。
あ~、そうゆうことか。
そして、この短編『Crooner(老歌手)』の主人公の名は「Jan(ヤン)」だったよね。
これは「John(ヨハネ)」のスラブ語・北ヨーロッパ圏での呼び方なんだ。
ヤンは旧共産圏出身とされていたから、ポーランドとかチェコ・スロヴァキアとかベラルーシあたりなんだろう。
そして「ヤン」は友だちから「ヤネク」と呼ばれていた。
それを聞いた老歌手の妻は「本名よりニックネームのほうが長い」と少しからかった。
これは「ヨハネ」が英語で「John the Baptist」と呼ばれていることを基にしたジョークだ。
「ヨハネ」には、もうひとりの有名人「使徒ヨハネ」がいるから、わざわざ長いニックネームで呼ばなければいけないのだな。間違えないために。
そういうことだったのか…
全然気がつかなかったな…
しかしタイトルひとつに、ここまでの情報量があったんだ…
まあ、伊達にノーベル文学賞をもらっとらんな。
伊達といえば、伊達政宗の命で建造され、仙台藩士・支倉常長の慶長遣欧使節で使われた船は「サン・ファン・バウティスタ号」という名前だった。
これも「洗礼者ヨハネ号」という意味だね。
うんちく披露はいいから、短編小説自体の解説もしてよ。
気になって眠れないじゃんか!
「名前が隠されている重要な人物」ってのが「洗礼者ヨハネ」だってことまではわかったから。
いや、その「名前が隠されている人物」とは「洗礼者ヨハネ」のことじゃないんだ…
ええ!?
じゃあ、いったい誰なんだ?
ジュディ・ガーランドだよ。
Judy Garland(1922-1969)
またジュディ!?
そうなんだよ…
これまで『日の名残り』と「ボブ・ディラン」で解説してきたのと同様に、また『夜想曲集』もジュディ・ガーランドへのオマージュであふれている作品なんだ…
んなアホな…
なんでカズオ・イシグロが、そこまでジュディに入れこまなアカンのや?
意味わからんわ。
なんでなんで~?
さっきお話を聞いた時には全然わからなかった。
いったいどうゆうことなの?教えてよ!おかえもん!
いいよ。
でも、この『Crooner』という話は、この短編集の...
いや、それだけじゃなくて『日の名残り』も含めて「イシグロ文学」を読み解くための「手引書」っていうか「トリセツ」みたいなモノなのかもしれないんだ…
だから、ちょっと長くなっちゃうかもしれないよ…
それでもいいなら…
構わん!頼む!
ええじゃろう君じゃないが、気になって眠れない!
アカン…もう付き合いきれんわ...
ワイは寝るで。
さあ、うるさい奴が寝たところで、始めようぜ。
日本人のほとんどが見過ごしている、カズオ・イシグロ作品に隠された最高に面白い話を…
――つづく――
カズオ・イシグロ『日の名残り』
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