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日本と日本語と家族と私 : 継承する人の(親)の視点

大学で小学校の先生になろうと勉強をしていた時にパリに1年間留学して日本語教育に出会ったヨシエさん。その後、日本語教師として再びパリへ戻ってくること2回。2回目はそのまま今に至る。途中、継承語教育にも携わりながら、パリの大学や私立中学高校で日本語を教えている。でも、今回は教師としてのヨシエさんではなく、理論などに囚われすぎずに、家庭内環境のバランスを考えながら日仏ファミリーを育んでいるお母さんとしてのヨシエさんに話を聞いた。

子育てを一緒に

ヨシエさんファミリーは、フランス人の夫と15歳と13歳の息子2人の4人家族。夫は一時期日本語を学ぶ努力はしたけれど、結局あまり身に付かず日本語が話せないので、家族の言葉はフランス語と決まっている。ヨシエさんは、日本語教育や継承語教育に携わっていることもあり、本も色々読んでいたけれど、長男が生まれ、そのうち次男が生まれても、実は、自分の家の子育てにはあまり本に書かれている理論を応用していない。と告白してくれた。

「よく言われる理論で、私は日本語と決めたら日本語だけ、そしてもう一人(この場合お父さん)はフランス語だけで話すようにして、私の顔を見たら日本語って条件反射というか、私と日本語で話すのが自然って持っていくのが、1番効果的なやり方だっていうのは知っていたけれども、それを実際にはちゃんとやっていませんでした。というのは、私はそこまではっきり分けようとは思わなかったのです。長男が産まれた時、私が赤ちゃんと日本語だけで話していると、例えば義理の母が来た時にも、夫も、私と赤ちゃんを一対一にさせてくれるんだけど、そしてそれを望んでそういう状況を作ってくれるんだけれども、私は、逆になんか隔離された世界になってしまって、他の人たちをシャットアウトしてしまう感じがすごく、自分の中で変な感じがしたんです。というのは、「子育てを一緒にしたい」という気持ちがあったと思うんです。例えば、息子を叱っている時に、ちゃんと何が起こっているのかを理解して一緒に見てほしかったんだと思います。それで、私は息子に対して、私だけの時や簡単なことは日本語で話してたんですけど、他の人が一緒の時はフランス語を混ぜて話したりしていたんですね。それが何年間か続いて、次男が産まれた時も同じような感じでやっていました。」

後悔、悩み、でも本当に大事なこと

もうちょっと頑張るべきだったかな、と後悔したり悩んだりしたことも最初の頃はあったというヨシエさん。継承語教育の本を読んだり、他のお母さんの話を聞いていると、周りは日本語を頑張っているのに自分はなんて適当にやっているんだろうという気持ちになってきた。

「私の周りのお母さんはすごく頑張っている人が多くて、子供たちと日本語だけで話している人が結構多かったのね。ご主人が日本語ができるという人も何人かいて、そこは家庭内で分断みたくならずに済んだだというのもあったと思うんだけど。それがあるかないかで、フランス語で話すのか、日本語で話すのかっていうのは変わってくると思う。ま、いずれにしろ、周りの人の話を聞いていると、日本語を頑張ってるなというのに比較して私はなんかすごい適当にやってるな。と思ったのと、いろんな本とかも読んでると、あーやっぱりちゃんとやるべきだったと思ったので、ちょっと悩んだりもしました。」

でも、そこでヨシエさんは、子供たちが日本語をできるようになるには、やり方はどうであろうと、日本語をどれだけインプットしてあげるかによるのだということに改めて気づき、なるべくインプットしようと意識し始めた。

「意識してできるだけ日本語を話すようにがんばり始めて、その他に本を買ったりとか、《しまじろう》の本をとり始めたりしました。でも、うちは付録だけが楽しみな人たちで、2人とも付録は一生懸命見てたけど、本は開かず、新品の本がどんどん溜まっていくばかりだったから、小学校何年生かで辞めちゃいました。日本語の教室には週に1回1時間半、幼稚園の年中から2人とも通わせています。今でも続けています。教室は真面目に行って、やってるつもりだったけど、他のお母さんの話を聞くと、みんなすごく真面目にやってるんですよね。うちは行くことだけは真面目にやってたけど、学校任せに結構していて。音読は一応、宿題でやらせていましたけど。」

「でも、私の心の奥底にあったのは、そして今もあるのは、日本が、日本語も含めてだけど、好きでいて欲しいということ。強制することによって日本語が勉強になるのが嫌だったのと、勉強じゃなくて好きでいてくれたら、本人が勉強したくなった時にもっと頑張れるだろうと思っていた。だから、後悔は多少あったけど、ま、いいっか、という気持ちも実はある。それに、好きでいて欲しいっていうことでは、ちゃんと子供たちは、今でも日本が大好きでいてくれてるから、それはよかったなと思ってる。」

面白い話①:知的レベルと言語

ヨシエさんのお友達で継承語教育を専門にやっている人が、研究の対象として何年もかけて継続的にインタビューをしている、ある日仏家族の子供の話をしてくれたのがとても印象に残ったという。

「日本語をずっと教えていない、そしてあんまり日本語を家庭でも使っていないのに、子供の年齢が上に上がってきた時、日本語の力もいつの間にか伸びていた、というの。家庭やその他で日本語を勉強していないのにテストをしたら日本語力が伸びているのはなぜかという議論をしていたんだけれども、それは、知的レベル、自分の考える力は、どの言語にしろ、そして外に出てくるアウトプットの言語が何にしろ、年齢とともに伸びているもので、それはこの場合、フランス語で培われたものだと思われるけれども、それが伸びていることによってアウトプットする言語も、昔の日本語の知識を元になのか、とにかく日本語力(日本語でのコミュニケーション力)まで伸びたんではないか、と。前は色々ぐちゃぐちゃだったことが、日本語の力でぐちゃぐちゃだったのか、自分の中での知的レベルでぐちゃぐちゃだったのか。とにかく、その話を聞いて、あ、面白いな、と思って。それで、今度うちの子供たちのレベルをみてみると、やっぱりちっちゃい頃には結構ぐちゃぐちゃなことも言っていたけれど、今は、日常会話っていうのは普通に日本語で喋っているし問題ないけど、もうちょっと難しいことは、例えば、小学校5、6年生の教科書に出てくる古典や説明文はちゃんとできていないレベルとも言える。でも、先生が、じゃあ説明する文を書いてみましょうっていった時に一応なんとなく書き始めているのを見ると、私自身は難しいことを教えていないけれども、何となくフランス語でのレベルが伸びてきているのに呼応して、日本語の書く力、話す力もちょっと伸びている気もする。」

夏は日本で

インプットの濃縮版

ヨシエさんは、毎年夏は子供達と一緒に日本で過ごすことにしている。お父さんは途中からの参加なので、子供たちにとって約1ヶ月フランス語の通じない親戚や家族との日本語漬けの日々になる。そして近所の幼稚園や小学校での体験入学を通して同じ年頃の子供の生活を垣間見ることができた。

「私が1番よかったなと思うのは、日本へ夏に連れて行っていたこと。日本の家族が全くフランス語できないので、日本に行ったら日本語漬けになっていた。それと、幼稚園くらいから何年間か、2週間だったりとか、10日間だったり、できたら3週間とか、日本の学校や幼稚園に入れていたことが、子供たちには一番よかったみたいです。日本の学校に入れているともちろん周りは全くフランス語できないから、それで頑張って、色んな言葉も覚えるし。それが一番伸びた時かなと思います。9月にはまたフランス語主体の生活に戻ってしまうけれども、日本が好きになるということでも、よかったかなと思ってます。あと、日本語を使う機会とね。」

息子さんたちは2人とも小学校の6年生まで毎年それぞれ同じ学校に編入させてもらっていた。

「1回両親が引っ越したので1回学校は変わったけどそんなに変わることもなく、だいたい、『あ、また来たねー。』みたいな感じで上がれたのは良かった。あと、最初の頃は学校の勉強もだいたいわかったと言うか、1年生とか2年生での勉強ならそれほど語彙のレベルに差はなかったから大丈夫だったんだけど、さすがに5年生、6年生になると、学校の勉強に全然ついていけてなかった。だけど、そこはそれぞれの性格で、上の子は特に気にしないで平気だったし、下の子は、頑張ってやるって言って眉間に皺寄せてやっていたのがかわいそうだなとも思ったけど、そこは性格だなって。だけど先生たちもすごくよくしてくれたから、お友達と同じ学年で一応最後までいけた。」

おじさんの存在

日本語を話す機会

ヨシエさんの子供たちには、フランスへ戻っても連絡を取り合いたい日本の友達がいる。それはヨシエさんのお兄さん。今ではヨシエさんを介さずに直接やりとりしているという。

「もう1つうちの子たちに大きいなと思うのが、うちの兄の存在。兄は日本に住んでいて、子供がいなくて、子供たちはうちの兄のことが大大大好きで、兄もうちの子たちのことが大好き。しょっちゅうL I N Eで、もう私を介さないでメッセージの交換とかいつも喋っているのよね。それは全部日本語で喋ってるから、それはいいことなんじゃないかと思っているんです。よく言われていることだけれども、誰か、友達でもいいし、日本のおじいちゃんおばあちゃんでもいいんだけど、コミュニケーションを取りたいって思う人が日本語じゃないとダメという状況があったら、日本語の上達にすごくいいことだと思っていて。うちの場合、それが兄と成り立っているというのはすごくいいなと思っている。おじいちゃんおばあちゃんや、私の妹ともやりとりしているんだけど、親しみということでは、時間をあまり気にせず、いつも話しているうちの兄っていうのはすごく近いというのと、うちの兄のレベルが、おじさんという感じでは全くなくて、子供達と同じレベルの友達なのね。ゲームとかも全部そうだし、なんかそういう同じようなレベルで話しをしているから友達だと思っていると思うのね、でも、本当にありがたいことだと思っています。」

食べ物、漫画、悪い言葉

家庭の中でも伝えられる日本の文化

和食が大好きだというヨシエさんの子供たち。お米のご飯が好きで、夕食に限らず、一時期は朝ご飯にも食べていたほど。

「長男は最近、お弁当を自分で作って学校に持って行ってます。ちゃんとお弁当箱にご飯詰めて、日本的なお弁当を。きっかけは、自分がお弁当とかが好きなのと、コロナのせいで給食が不安というのと、《ニコべん》っていう漫画があって、その中で男の子が美味しそうなお弁当を作っているのを読んで。だから少しずつ卵焼きやタコさんウィンナーの作り方教えてあげたりして。自分で作れるようになって『ふーむ。』とかやってる(笑)。そういうのも、いいかなって思って、文化って言っても大した文化じゃないけど。」

漫画も大好きな二人。日本へ行くとたくさん買って帰ってくるという。長男はドラえもんを全巻揃えて日本語で読んでいた。次男はどちらかというとフランス語で読んでいる。そして漫画の影響は、お弁当以外にも及んでいる。

「ドラえもんを読んでるころは良かったんだけれども、今一番好きなのは
《G T O》と《ドロップ》という漫画。それで、暴走族とかそういうのに結構魅かれているみたいで、なんで?って思うけど、そういう喋り方をすごく習いたいって、言ってくるからいくつか教えてあげたの。教えなければ良かったって思ったりもするんだけど、『あま』とか『このあま』とか言われて、そんなこと言ったらもう食事作んないからねっとか言いながら。というように、暴走族っぽい喋り方とか不良っぽい喋り方とかもやっていて、他にも悪い言葉を色々教えろっていうから教えたら、やっぱり、教えなければよかった、と。笑。でも、最近は面白いなと思ってる。私が学校で日本語を教えていると、みんな丁寧なすごくちゃんとした日本語ばっかりだから、うちではそうじゃないのを教えてもいいかな、と思って。そういうのを色々試してみて、関西弁はこうだよとか、こういう人たちはこんな喋り方するんだよ、とか。あと、いろんな悪い言葉も。ま、悪い言葉ってこの年齢ってみんな知りたがる頃だし。」

伝統的な文化や日本語ももちろん大切だけど、このように家庭の中で伝えられるものっていうのもすごく大切だ、と実感している。さらにヨシエさんは、「日本語」の学習にこだわりすぎず、子供たちが自然と日本を好きになれる、興味を持ってもらえるために、日常的な日本を体験する機会を色々与えてあげている。

「日仏家族の会に入っていたというのは、運動会を毎年オーガナイズしていて。綱引きだとか、本当にちゃんとやっていたのね。お母さんたちのオーガナイズは本当に大変なんだけど、でもその後、お弁当をたくさんみんなで持ってきて食べるっていう、お弁当をこうやってみんなで楽しむんだよっていうのも直に見せられるし、お正月も新年会っていうのがあって、うちの子たちは食べるのを楽しみに行ってたんだけど、みんないろんなお菓子を作ってきたりとか、そういうのも楽しかったり。幼稚園から小学校はずっとお世話になっていた。それは、ちょっとした日本という感じかな。運動会も日本とは違うけど、なんか味わわせてあげたいと思ってたし。玉入れとか、リレーとか。フランスの学校ではないようなことを、体験する機会をあげるのもいいかなと思って。それこそ和食もそうだけど、うちでできるような伝統行事って「ナンちゃって」しかできないけど、豆まきをやったりとか、七草粥とかもちょっとやったりしたかな。私が食べたいっていうのが、一番あったんだけどね。」

「日本語の教室に行かせているのも日本語ももちろん大切だけど、行くことによって自分と同じような立場の子たちに会えることが大切だなって思ってる。自分たちは特別じゃない、日仏でやっている子は他にもたくさんいるし、勉強も続けているし、同じような感じで育っているというのを、幼稚園からずっと一緒に学年が上がっていくから、見ることができて、それもいい刺激だなと思っています。」

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日本に住みたいと言い出した子供たち

テレビではなく、インターネット世代の子供たちは、日本のアニメやYouTubeのビデオを自発的に自分たちで選んで、フランス語の字幕をつけながら日本語でみている。そんな子供たちに、ヨシエさんにとって嬉しい変化が起きた。

「舞台が中学高校のアニメがあるでしょ、それを見て日本の高校とか面白いと思ったみたいで、2人とも日本に行きたい住みたいと言い出したの。そして、ある時すごく嬉しかったのが、長男が、あの子は漢字ができないんだけど、最初のロックダウンの時に、「僕は決めた。漢字を頑張る」って言って、全部復習して頑張るって言って、私に漢字の勉強をお願いだから一緒にやろうって言ってきて、それでやり始めたの。結局2年生の漢字だけで終わっちゃったんだけど、2年生の漢字もすごく頑張ってやって、あ、こんなに頑張るならと思って3年生と4年生の漢字の本も注文したら、それは手付かずのまま終わっちゃったんだけど。だけど、やる気を見せたのがすごく嬉しくって、しかも自分で決めたらすごく頑張ってたから、それはいいことだと思って。あと日本に留学するって決めたらもっと頑張るって言って。下の子も、最初はそんなこと言ってなかったのに、住みたいって言っていて、面白いな、この変化って思っている。それと共に日本語を頑張ろうっていう自分たちからの気持ちも出てきて、育ってきて、興味が向いてきて、親から与えてもらってただ単にあるものじゃなくて、自分たちからしようという気持ちが出てきたというのはいい変化だと思っている。」

「日本に住みたいと言い始めた頃から、僕たち決めたって、これから私と話す時は全部日本語で話すって言い出したの。(子供が日本語をあまり話さないことに関して)昔はすごく後悔というか悩んだ時もあったけど、時期が来て、自分がそうしたいと思えば、そうするのかと思って。今、こちらで、日本語で話すのは私しかいないしね。だから、全部日本語で頑張るって言い始めて、私はそれがすごく嬉しかった。」

お父さんの居場所

ロックダウン中の出来事  

ところが、思わぬ人から抗議が出た。最初からものすごく協力的で、日本語の教室へ通わせたり、日本へ毎年行くことに対しても、当然でしょうというスタンスでサポートしてきた夫が、とつぜん家の中で日本語が飛び交うようになって動揺してしまった。

「子供たちが日本語で話すことが、すごくうまくいっていて、すごく日本語で話していて、難しいこともどんどん言えるようになってきたりしてたんだけど、夫がそこで、ガーンって思ったみたいで、僕の居場所が!って。それで大変なことになってしまったの。3月以来、家族4人がずっと家にいる時間が多かった(フランスにおける最初のロックダウン時期)、その時期に日本語化が始まっちゃったものだから、この家はなんなんだ!日本語しかない家なのか!って。しかも彼は話していることが全然分からなくて、そっちだけで楽しんでいる!みたいな。という問題が起こり、やっぱり4人でうまくやっていくためには、お父さんがいる時にはフランス語で話す、そしてそうじゃない時には日本語で話してもいいけどね、みたいなスタイルに今落ち着きつつある。」
いまさらどうして?と、最初は驚いたヨシエさん。夫の疎外されている気持ちに気づいていなかった。

「うちもね、最初はそんなこと思ってるなんてちっとも思ってなかった。長男が漢字を頑張ると言い出した時とか、日本語頑張るって言った時とか、こんなこと言ってるよ、嬉しいな嬉しいなって話をしていたのよね。彼も、ふーんって、聞いてたからオッケーなんだと思ってたというか、オッケーも何もあるなんて思いもしなかったのよね、私自身が。そしたらある日、わからないからフランス語で話してって言われて、「は?」と思って、でもそんなこと思いもしなかったから、冗談で言ってるんでしょ?って思ってたら、そうじゃなかったんだよね。あーそうなんだって後から思って。それと、子供たちが大きくなってきて、日常生活っていうよりももっと色々な話ができるようになるじゃない、フランス語にしても、だから日本語で話してた時も、実は全然大して面白い話をしてたわけじゃないんだけど、何か面白いことを言ってるに違いないって。」
でも、疎外感はいつか自分にも当てはまってしまう状況かもしれないと、改めて考えさせられる。

「今になってくると、日本語じゃなくてフランス語を私が頑張らないと。フランス語でみんないろんなすごいことを言うようになるでしょ。昔は簡単なことしか言ってなかったから、私でもわかったけど、難しいこと言ってると右から左へ素通りって感じになってきて私がボケーってみたいになってしまうから、これはまずいかもとも。日本語を継承っていうのも大切だけど、私の居場所っていう意味でも、考えなきゃな、とも思えてくるよね。」

自分勝手な願い

子供たちに日本語を身につけさせたいと思うのはなぜか?と聞くと、子供たちにとってフランス以外の国の文化を知るというのは物事の見方が広くなるし、良いことだと思っていて、せっかくそれを自然にできる環境にあるのだからやらない手はない、やって当たり前と感じているという答えが返ってきた。でも、実は子供のためばかりでもないと説明してくれた。

「やっぱり私はフランスではずっと外国人なのであって、やっぱり私自身一番自然でいられるのは日本語で話している時で、思ったことも1番日本語が、もちろんだけど、自然に言える。例えば本当に自分が言いたいことを言う時に、子供がどれだけわかっているかわからないけど、わからないからフランス語で言ってと言われた時にはフランス語で言うけど、一番自分の奥深い感情は日本語だからこそ言えるところがある。それで、子供っていうのはやっぱり自分にとって1番近い人たちだと思ってるんだけど、その彼らに理解してもらえないというのはすごく悲しいことだなと思う。自分をわかってもらうためには日本語が必要だから、日本語をわかっていてほしいと思った。」

日本や日本語に関する子供たちへの願いにおいても

「日本ということで言えば、基本は変わってなくて、ずっと好きでいてほしいっていうのがまず1つ。それは絶対的な願いで、変わらない。あとは、自分勝手な願いだけど、私と日本語で話せるレベルをずっとキープしてほしい、もっと上手くなってくれればもっといいけど。友達とばか話で言うことがあるのは、アルツハイマーとかになったらフランス語話せなくなるかしらねって。誰とも話せなくなったら嫌だから、子供には日本語キープしてほしいねって。」

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面白い話②:年取って残るもの

ヨシエさんが同僚と年取った時に言葉の不安があるという話をしていた時に、その同僚は自分のお父さんの話をしてくれた。

「その人自身はトリリンガルで、フランス人だと思っていたら、お父さんはオランダ人でお母さんはイギリス人、彼女はフランスで育ち、フランス語で教育を受けていると。そして、そのお父さんはもともと外交官で、5ヶ国語しゃべれる、ものすごく語学に長けている人だったんですって。それで、彼女が言ってたのは、お父さんはプロ並みのピアノ奏者だったらしいんだけど、アルツハイマーみたいになってしまった時、言葉は『これどう言うんだっけ?』ってお父さんに聞けば一発で正解が返ってくるほど、言葉には全然問題がなかった、母語じゃなくてもしっかり覚えていたけれど、ピアノは全く弾けなくなっちゃったんだって。考えないでやれることは大丈夫なんだと思いがちだけど、実はそうじゃなくて、ピアノが全然弾けなくなっちゃっても言葉は大丈夫だったと。脳のどこが蝕まれるか、回路のどこが切れちゃうか、によるんだ、そういう例もあるんだ、面白いなって思って。語学もわからないものだねって。自分の場合、日本語だけはわからなくなるってことはないって思いたいけど。」

努力しないと両方できるようにはならない

今フランスで育っている日仏の子供たちはすごくラッキーだとヨシエさんは感じている。

「今の時代が、日本文化がフランスではネガティブに受け止められていない、どちらかというとポジティブに受け止められている、そんな時代にこの子達が生まれてくることができたのはすごくラッキーだと思う。お友達で、日本語を話したくないと思って、フランス語だけにしている家庭もあるけれども、うちの子供たちは日本とフランスが半分半分だということを隠すだなんていうふうには思いもしないし、それがお友達にいいなーって思われる、そう言ってくれるようなお友達がいる時代に生まれて良かったねって思う。」
それでも、インプットし続けることがやはり大切だと確信している。

「なんか、返ってこないと入っていないんじゃないかって思いがちだけど、そして、なんかやりたくなくなっちゃうけど、続けなくちゃいけないっていうのはありますよね。そこであきらめちゃいけないっていうか。」

「だけど、昔、日本にいた頃、バイリンガルの人っていいなって思ってたんだけど、自分がそういう子供たちを持ってわかるのが、日常生活でラッキーなことはあるけれども、でもやっぱり努力しないと両方できるようにならないんだなって。」

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*このインタビューは、2020年度東芝国際交流財団助成プログラムの日本語教育を振興する事業として支援を受け実現したプロジェクトです。



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