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朝廷に献上された和菓子「七嘉定」

【スキ御礼】和菓子を献上する「山王嘉祥祭」

嘉定喰は陰暦六月十六日に行われた行事。
今年(2024年)ですと七月二十日が陰暦の六月十六日にあたります。

江戸時代に宮廷で行われた嘉定は七種のお菓子を献上する(七嘉定)というものでした。
この七種の内訳については特定されていなかったようです。

この七種の嘉定菓子は現在でも虎屋さんで販売されています(写真)。

それぞれに菓銘があり、
写真真ん中が、
・豊岡の里
上から時計回りに
・武蔵野
・源氏籬
・桔梗餅
・伊賀餅
・味噌松風
・浅路飴
となっています。

 それぞれの菓子には、戦国時代から安土桃山時代に確立した茶道の影響を受けて、古今和歌集や源氏物語といった古典文学や季節にちなんだ名前「菓銘」がつけられるようになっています。

享保期(一七一六~三六)を過ぎた頃には、各流派の宗匠の趣向を反映した菓子も作られるようになり、宗匠や宮家好みの「御好み」と呼ばれる菓子もあったということです。

さて、ここで気になるのは朝廷に献上したという虎屋の七種の嘉定菓子の菓銘です。
朝廷に献上するのですから宮家の「御好み」であるはずで、菓銘もまた宮家の「御好み」に沿ったものではないかと考えられます。
この七種が選ばれた理由は虎屋さんでも記録がないそうです。

それならば、七嘉定の菓銘について、選ばれた、または名付けられた理由を想像してみたいと思います。

七つの菓銘(菓子)は、それぞれが宮家の「御好み」であろうことは想像できます。
献上する側としても、ただお好みに従うのではなく、朝廷は身分の最高のお客様ですから、宮家への敬意を込めて、七種全体でも何かしらのテーマを持った提案をしたのではないかとも想像します。

 献上された記録があるという江戸時代の末期の時代背景から考えます。
 嘉定が始められた中世と比べてみると、江戸時代になると政治の中心は江戸の幕府に移り、京都は政治の中枢から外れています。
 公家たちは、政治を司っていた中世の頃を理想としていて、心底には往時への回帰願望があるのではないか、と思われます。
 菓銘とは、召し上がる方々の間で、それをもとに季節や文化に関する会話が広がるようなものでもありました。
 ですから菓子には当時の王朝文化の象徴である平安文学、とくに源氏物語を想起させるような菓銘が好まれて名付けられたものが集められた、または作られたのではないかとの仮説を立てました。

では、虎屋の七種の嘉定菓子の一つ一つについて、検証していきたいと思います。(続く)

(岡田 耕)

*参考文献
・窪寺紘一『公武行事歳時記』世界聖典刊行協会 1992年
・山東京山作 歌川国芳・国安画『五節句稚童講釈 江戸年中行事幼絵抄』太平書屋蔵版 1995年
・青木直己『図説 和菓子の歴史』ちくま学芸文庫 2017年
・虎屋文庫『和菓子を愛した人たち』山川出版社 2017年
・黒川光博『虎屋 和菓子と歩んだ五百年』新潮新書 2005年
・中山圭子『和菓子ものがたり』新人物往来社 1993年
・中山圭子 解説『和菓子歳時記 虎屋銘菓名撰』婦人画報社 1994年
虎屋さんに教わる「和菓子の日」の起源と楽しみ方 | 中川政七商店の読みもの (nakagawa-masashichi.jp)

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