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老残日誌(三十七) いわゆる「革命」の継承
いわゆる「革命」の継承
中国共産党の文芸路線は、延安に何万年もの時間をかけて降り積もった黄土層の中から鬼胎として生まれてきた。「窰洞文学」とよばれるものである。毛沢東が「整風」と称した政治運動の中からひねり出した「文芸講話」がその基礎になっている。「文芸講話」の普及にお先棒を担いだのが山西省の農村に生まれた趙樹理で、その作風は「趙樹理方向」として中華人民共和国成立前後の文学を長く規定する。その趙
老残日誌(三十六) 清平市場
清平市場
かつての清平市場は、きわめて原始的な空間だった。SARSや武漢肺炎など邪悪な病原菌を媒介する野生動物や、蛇、猫などが活きたまま食材として売られていた。人間の背丈ほどもある犬をまるごとローストした姿焼きなどが幾体も店先にぶら下がっていたりして、度肝を抜かれた。その光景は、欧米人が設計した隣接する沙面街の静謐と並べて見ると、そこに中国人の心性をさぐる手がかりの一片があるように思える。
清
老残日誌(三十五) 越秀南路の夜は更けて
越秀南路の夜は更けて
広州の晩は、按摩が楽しい。越秀南路の並木道沿いにある高級店が行きつけだった。高級クラブみたいな風情のある、なかなか味わい深い社交上だった。もう二十五年くらいも前のことなので、残念なことに香しい舗名は失念した。夕方、勤め先の流花路からタクシーで二沙島の住居に帰り、お手伝いさんが作ってくれた広東湯と東莞の臘肉などで簡単に夕食をとる。9時くらいまで仮眠し、それから越秀南路へくりだ
老残日誌(三十四) 公主墳廣播電台仮宿舎(一九七九年)
公主墳廣播電台仮宿舎(一九七九年夏)
黄昇民は中国広告界の風雲児である。一九七〇年代の後半、北京廣播学院(現:中国伝媒大学)の四年次に、わたくしが所属していた国際放送局日語部に実習に来て陳真さんの弟子となり、国際放送のあれこれを勉強していた。年齢が近かったのですぐ親しくなり、朋友関係は今もつづいている。写真は黄昇民が中国中央テレビ局(CCTV)に配属されて数年後、結婚してやっと分配を受けた公主
浦賀日誌(十二) 京急安針塚駅界隈
京急安針塚駅界隈
午前、畏友の横浜地名研究会々長を誘い、戦前、軍と関係の深かった京急電鉄の駅をめぐった。時間を決め、安針塚駅で待ち合わせる。お互いに出遅れや乗り間違いで約束の時刻に半時間ほど遅れる。ともに、老い、ぼけてしまったことを慰めあう。この駅は一九三四(昭和九)年に軍需部前駅として開業し、六年後の一九四〇(同十五)年、安針塚駅と改称された。ここから逸見駅を南にひとつ隔てた汐入駅は一九三〇(
浦賀日誌(十一) 鳴神と昭南
鳴神と昭南
京急電鉄の駅名には、その一部にかつて大日本帝国が攻略して命名した外国の地名がついていた。浦賀からちょっと遠い散歩道の範囲内に、京急電鉄の新大津駅、北久里浜駅がある。新大津は地理的に京急大津と隣り合っているが、それぞれ京急本線と久里浜線に別れて属しているため、電車で移動することはできない。京急大津と新大津のちょうど中間あたりには大津諏訪神社があり、数年に一度、長野県の総社の応援を得て「
浦賀日誌(十) 東京湾、出船・入り船夕景色
東京湾、出船・入り船夕景色
一昨年の暮れに購入し、そのまま使わずに放置してあったNikon D7000とSIGMA 30mm 1:1.4 DC HSM の試写におよんだ。このカメラはおなじ4桁の普及機 3000や 5000 シリーズのいわゆる主婦写真機とは一線を画している。おそらく2桁 90シリーズの系譜を受け継ぐもので、ニコン一眼の中高級機に位置する。フィルム時代の F100や 、デジタルにな
青春プレイバック(四)
玉門関周辺
手元の古い記録によれば、一九八一年七月、北京からフフホト(呼和浩特)、蘭州、張掖、嘉峪関、敦煌、トルファン、ウルムチなどをめぐる旅をしたようだ。写真の玉門駅には下車しなかったので、停車時間にホームに立って記念写真だけを撮ったのだろう。万年暦で調べてみると、焦げつくような陽光が照りつける盛夏七月十五日(水)のことだったらしい。蘭州から蘭新鉄路の硬臥(二等寝台)に乗り、おそらく張掖で下車
青春プレイバック(三)
黄河大鉄橋
シルクロードに初めて足を踏み入れた旅は、蘭州からはじまった。日記によれば、それは一九八一年 七月十三日(月)のことだったらしい。蘭州の街は、西から東に流れる黄河に沿って発展した。そのことは、宿泊先の蘭州飯店からちょっと歩いて黄河の河畔に立つとすぐにわかった。
黄河大鉄橋は、この街のランドマークだ。人やバス、トラックの往来が頻繁で、雑踏している。河水は茶色に濁り、河岸では大きな水車の