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老残日誌(三十四) 公主墳廣播電台仮宿舎(一九七九年)

公主墳廣播電台仮宿舎(一九七九年夏)

 黄昇民は中国広告界の風雲児である。一九七〇年代の後半、北京廣播学院(現:中国伝媒大学)の四年次に、わたくしが所属していた国際放送局日語部に実習に来て陳真さんの弟子となり、国際放送のあれこれを勉強していた。年齢が近かったのですぐ親しくなり、朋友関係は今もつづいている。写真は黄昇民が中国中央テレビ局(CCTV)に配属されて数年後、結婚してやっと分配を受けた公主墳の仮宿舎の入り口で一緒に撮った記念写真だ。お互いに若いね…。

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 黄昇民とは、人生の節目ふしめで濃密な交流があった。最初はすでに書いた日語部における出会いで、このときは二人で北京の隅々までどころか外地まで出かけてゆき、中国的社会主義に対する「狼藉」の限りを尽くしたのだ。

 その後、わたくしは帰国し、黄昇民もまもなく来日して東京大学、一橋大学の大学院でマーケティングなどを学んでいた。当時、わたくしはオリンパス光学の中国室で現地生産の仕事をしていた。黄昇民は貧乏生活によく耐え、一緒に喫茶店に入ると小さなミルク・ピッチャーに注がれた生クリームをかならず飲み干していた。栄養をつけるのだ、と冗談っぽく語った。きっと、本心だったのだと思う。それほどに貧乏だったのだ。一九八〇年代の中頃のことである。

 一九九〇年代の初頭、わたくしが東京で挫折して香港に逃亡したころ、黄昇民は学業を終えて北京に戻り、中央テレビ局から母校の北京廣播学院に移籍して教壇に立っていた。三度目の邂逅を果したのはわたくしが博報堂の香港現地法人にいたころで、「中国十二都市における若者の意識調査」を二人で組織した。

 それから二〇〇〇年くらいまでしばらく疎遠になったが、おなじ中国の広告業界にいたので、深圳や広州、北京などでときどき会う機会があった。わたくしは個人的にバブルの絶頂期で、黄昇民も学術とビジネスの階梯をすでにそうとう高いところまで登っていたようである。

 黄昇民は数年前、中国伝媒大学広告学院長の高位を後進に譲り、いまは悠々自適の生活を送っている。北京北郊の王府花園に三階建ての瀟洒な別荘を持ち、普段は建国門外の華僑村で優雅に暮らしている。故郷の広州には王府花園以上の豪邸があり、奥さんの故郷である重慶にも大きな住宅を有している。黄昇民の青春時代から中年、壮年、老年への奇跡は、まさに中国の改革開放にぴたりと重なる。この国には、きっと何百万、何千万人の黄昇民がいるにちがいない。

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远方的记忆…。
  升民,效杰夫妻在与我离别时留给我的老照片。一九八二年七月四日是我离开北京的那个夏季的酷热之一天。前一天,从日本接到母亲病危的消息,晚上收拾在四年之间里积累下来的身边这个那个的东西(包括人际关系),第二天一早就坐国际广播电台给我安排的上海号轿车赶到机场,匆匆忙忙地撤退北京回到时隔四年之久之日本。升民,效杰夫妻也到了机场送我。那时,升民悄悄地从兜儿里拿出来给我一张照片,他当场在背面写的字样儿现在还很鲜艳。

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  已过四十年的时光了。当时我在广播事业局当专家,升民在中央电视台《电视周报》编辑部工作,效杰也在中央电视台技术部门当年青干部。后来,升民抱着野心留学日本。在东京大学,一桥大学等校园里攻读了几年的传播学。回国后马上就成了广告界的风云人物。我也在博报堂广告公司待了好几年。我们在广告行业里重逢,为了两国广告的发展合作了许多。效杰现已当上了中央电视台技术部门的高干。

  深夜省思自己走过来的长远之人生道路。我走过的路到底是正确,还是不…。这恐怕永远得不到解答的难题。但,可以说一句话;我在漫长的人生道路上碰到了不少有志气的人,有了许多好朋友。

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