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老残日誌(三十一)

言葉は世代に流行する

北京の一九七〇年代には、延安などの紅色根拠地で使われていたいわゆる「革命用語」がまだ活きていた。たとえば上に書いた「根拠地」とか、あるいは「隊伍」、「覚悟」、「階級闘争」などである。中華人民共和国が建国して三十年たつかたたないかの頃で、外国との交流も特権を持つ限られた人だけにしかできなかった時代であり、なによりも人民がまだ社会主義革命にいくばくかの希望を抱いていたので、根拠地で使われていた「革命」的な語彙が依然としてそのまま人々の口の端にのぼっていたのだろう。そんな環境で学んだ中国語なので、筆者にはとても懐かしく、またそれらの言葉にアイデンティさえ感じてしまうのだ。それは日本語でもおなじで、一九六〇~七十年代の日本に流通し、すでに死後になってしまったような言葉を思い出すと胸が熱くなり、同時に当時の懐かしい情景が浮かんでくる。

泉麻人の仕事に、『ナウのしくみ』(文芸春秋、一九八五年)という一連の著作がある。バブルに浮かれた昭和末期における日本人の心を描くことに挑戦した作品である。あのころは、今から思うと胸の奥深くまで深呼吸のできる時代だった。社会の管理構造にはまだ多くの隙間があり、それほど息苦しくなかったのだ。

北海公園

筆者は不自由になり始めた日本を嫌って昭和の終焉とともに香港へ移住したので、覚えているのは昭和四十年代から六十四年までのおよそ二十五年間の限られた言語風景にすぎない。しかし、その間に幾多の言葉が盛衰し、日本人はそれらを競うように使い、話した。たとえば「ランデブー」という語彙がある。昭和四十(一九六五)年十二月、人類が月面着陸を果たしたアポロ計画の技術的な基礎を築いたジェミニ計画で、ジェミニ六号が宇宙空間において史上初めて後発した七号とお互いに三十センチの距離まで接近したことを称して「ランデブー」と呼んだ。翌年三月には、ジェミニ八号が標的としての無人機アジェナと初の「ドッキング」に成功した。これも流行語となり、前者のランデブーとあわせ、主に男女の逢い引きや交合の代用語として大流行したのである。中国語ではどのように表現すれば、これらふたつの言葉のニュアンスが出てくるのだろう。筆者ならおそらく「ランデブー」を「圧馬路」、「ドッキング」はあえて「鬼混」とか「掛上」などと訳すかもしれない。ちょっと背徳的な雰囲気を滲ませたほうが、昭和という大時代に相応しいと思うからである。

北京の一九七〇年代は、貧しく、物資が不足していた。たとえば所属機関の然るべき部署に仕事や生活面で困っているちょっと厄介な問題を相談に行っても、たいていは担当者の「研究研究」という一言で追い返されてしまった。これは「ちょっと研究してみます」、あるいは「検討してみましょう」というほどの意味で、相談を持ちかけられた人も無いない尽くしの社会状況では、そう言って相手の心を傷つけないように配慮しながら断るしか他に方法がなかったのである。「思想交流」という言葉もあった。原義は考え方の異なる者どうしが話し合い、最終的に思想的な合意に達することをいったのだが、男女間では感情を通じ合って恋愛関係に至ることなどもこの言葉で代用することができた。

徳勝門外バス停

日本の昭和における学生時代、貧乏な日常のなかで流行った「サルマタケ」という言葉も懐かしい。これは松本零士が 一九七〇年代前半に『週刊少年マガジン』誌上で連載した「男おいどん」(通称:男の四畳半)からスピンアウトした言葉である。幾日も穿きつづけたサルマタが押し入れのなかに堆積して醗酵し、そこから「サルマタケ」という菌糸組織構造物(キノコ)が生えてくるという荒唐無稽な漫画にすぎないのだが、当時の若年男子の生態を豪放な九州男児に仮託し、みごとに表現していて秀逸である。洗濯するのが億劫なので、押し入れに投げ入れ、穿き捨てたサルマタの中から比較的にきれいな物件を「選択」し、もういちど穿くという下宿経験者なら多かれ少なかれ身に覚えのあるちょっと人には話すことのできない恥ずかしい行為を、社会の表面に赤裸々にさらけ出した松本零士の慧眼は歴史に残るかもしれない。

大学の教室で中国語を履修した学生たちに「美国」(アメリカ)という中国語の単語を教えるとき、キミたちは「メリケン粉」を知っているか、と問いかけることがある。平成に生まれ、若年を生きつつある学生はキョトンとしているだけなのだが、まれに「オバアちゃんが小麦粉のことをそう呼んでいます」などと答える物知りもいる。オバアちゃんは、きっと昭和の戦後を生きた人にちがいない。その回答を引き出せばあとはこっちのもので、すかさず黒板に「美利堅(メリケン)合衆国」(アメリカ合衆国)と大書し、なぜ中国語ではあの国のことを「米国」ではなく「美国」と称するのかと説明すれば、ほとんどの者はすぐに納得してくれるのである。調子にのって、横浜のメリケン波止場や、それに派生する童謡「赤い靴」にまで話を拡げてしまうと、たいていの場合は飽きられてしまうので、そこまではやらないほうがよい。

昭和という時代は、軽薄だが味わい深い幾多の流行語を生んだ。「マブい」とか「アベック」、「社会の窓」、「パーマ屋」、「ドロンする」など、現在では老人しか使わなくなってしまったが、昭和と濃密にかかわってきた者にとっては「死語」として打ち捨てることなど到底できそうにない言葉の数々が燦爛している。

景山公園

わたしたちはみずからの時代を生きることはできるが、それを選ぶことはできない。その意味で、明治の人には明治の、大正には大正の、昭和には昭和の、そして平成を生きた若者には平成の流行語が、ずっと脳裏にこだましてゆくのだろう。それは中国もおなじことで、ここ数年来、北京の景山公園などに行けば、老人グループが二十人くらいで輪になり、「赤色根拠地」などで歌われた革命的な歌詞に満ちた「老歌」を大きな声で楽しそうに合唱している光景に出くわす。最近の日本語も中国語も筆者にはいただけないが、しかしいま若者たちが使っている言葉のいくつかは四十年、五十年後にはやがて死語になってゆくのは明らかで、将来、老人になった若者たちがそれらの言葉に懐かしさやアイデンティさえ抱くのもまた疑いようのないことなのである。

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