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【関西グルメ考】 #6 〜 たこ焼きの歴史編(前編)

「たこ焼き」はいつからあるのか?

関西グルメのといえば
「お好み焼き」&「たこ焼き」!

久しぶりに大阪に行って、旨い「お好み焼き」と「たこ焼き」を食べて以来、粉モンに興味津々の
オジロワシ 🦅です。

前回の「お好み焼きの歴史」を調べるうちに、色々とわかって来た新事実。
今回は粉モンの歴史シリーズ第2弾、
たこ焼きの歴史」について調べてみました。



(1)途中まではお好み焼きと一緒


粉モンとは 
ザックリいって
小麦粉を水で溶いた生地を使った料理の総称🌾。
イメージとしては
お好み焼き&たこ焼きですが、
小麦粉を原料として考えると、
うどんやラーメン、焼きそば、饅頭から、
パンやピザ、スパゲッティに至るまで、
米を除くほとんどの食べ物に、小麦粉が使われているというのが、分かります。

パンケーキやチヂミなんかも、粉モンの一種となりますから、何ともワールドワイドな訳ですね🌍


奈良時代には小麦粉を使った料理が唐から伝えられ、貴族を中心に粉食ふんしょく文化が日本でも徐々に広まっていきます。
千利休が好んだ「の焼き」が、お好み焼き&たこ焼きの先祖といえます。

江戸時代から明治時代にかけ、子どものおやつとして誕生した「もんじゃ焼き」が少しずつ形を変えて「どんどん焼き」に進化、やがて大阪に伝わり、「一銭洋食」という軽食になっていくという話は、前回書いた通りです。

この「一銭洋食」が、戦後、「お好み焼き」となっていくのですが、
この「一銭洋食」が同じく「たこ焼き」の先祖ということになります。

進化の過程は途中まで一緒とのことです。

この辺りの話は前回の記事で触れております
 ⬇️


(2)たこ焼きのルーツは3タイプ


現在の「たこ焼き」の原型は、
「お好み焼き」と同様、大正時代に流行した「一銭洋食」だった訳ですが
ここから「たこ焼き」と「お好み焼き」は、別の進化を遂げていきます。

たこ焼きの進化を辿るのに欠かせない食べ物が
①明石焼(玉子焼)
②ちょぼ焼
③ラヂオ焼

の3つ。
これらが絡み合って「たこ焼き」が誕生するのです。


(3)「明石焼(玉子焼)」とは

明石焼(玉子焼)

明石焼(玉子焼)」は、
兵庫県明石市の郷土料理。
形はたこ焼きに似て、タコが入っていますが、たこ焼きがソースで食べるのに対して、こちらはダシ汁で食べると言います。

元々、明石は、江戸時代の末期から、かんざしなどで使われる人工サンゴ「明石玉」の産地として知られていました。

明石玉は、かんざしの赤い「玉」の部分に使われた



この明石玉を作るには、大量の卵白(卵の白身)を使うのですが、余った卵黄(黄身)を利用して、
明石玉を製造する鍋で作ったのが
「玉子焼(明石焼)」だと言われています。

明治になり、かんざしの玉が外国産のセルロイドで作られるようになると、昔ながらの材料で作っていた職人は徐々に職を失っていきます。
そこで、明石玉の職人は、手元にあった明石玉を製造するための型を利用して、丸い形の玉子焼を作り屋台で販売するようになります。
だから、かんざしの玉のような形になったのかもしれません。

明石で獲れるタコを入れた明石焼は「玉子焼」として地元で親しまれて来ました。

昭和63年(1988年)頃、明石市の職員がPRのため「明石焼」という名称にすると、その名が全国に広まっていきます。
平成28年(2016年)、ご当地グルメの祭典「B-1グランプリスペシャル」では、「明石の玉子焼」が全国1位のゴールドグランプリを獲得しています。

この「明石焼」がたこ焼きのルーツの一つとされています。


(4)「ちょぼ焼き」とは


ちょぼ焼き

ちょぼ焼き」は、
明治の末から大正にかけて流行ったおやつ。
平らな鉄板で焼いていた「一銭洋食」とは異なり、
小さな窪みのついた鉄板(ちょぼ焼き板)に、小麦粉の生地を流し込み、コンニャクやえんどう豆、生姜、鰹節、ネギをふりかけて、
上下2段になった箱型のカンテキ(七輪)で焼きます。

「ちょぼ焼」の「ちょぼ」とは、ポチポチの突起部分の愛称。
ソースを付けて食べる駄菓子屋や屋台の人気商品でした。

特に「ちょぼ焼き」は、女の子に人気があり
「やきやき」とも呼ばれて、家庭で作ることもあったそう。

因みに「ちょぼ焼き器」で検索すると
今でも商品が販売されています(驚)。
昔の食べ物かと思いましたが、関西では、今でも普通に食べているのかもしれません。

小さな窪みの空いた「ちょぼ焼き板」は1枚の板のような形をしています。ちょぼ焼きは、たこ焼きのように1個、2個ではなく、1枚、2枚と数えたそう。

この窪みは、昔、貨幣を数えるために大阪商人が使っていた「銭枡」から来ているとされ(一文銭を効率よく数えるための窪みのついた桝)、
12個ほど空いた穴は、コンニャクなど、具材を入れるための目安として使われていたようです。

この「ちょぼ焼き」も「たこ焼き」のルーツになっているそうです。


(5)「ラヂオ焼き」とは


元祖たこ焼きの店「会津屋」

ラヂオ焼き」は、
明治の末から大正にかけて流行った
コンニャクや牛スジ肉を具材として丸く焼いた軽食です。
「ちょぼ焼き」が子ども向けのおやつなら、「ラヂオ焼き」は、少し大きな大人の軽食のようです。
こちらは現在のたこ焼きのように、丸い球状だったようですね。

戦前の大阪は、『東洋のマンチェスター』と呼ばれるほどの東洋一の工業地帯。
工場労働者が全国から大阪に集まり、「ちょぼ焼き」「ラヂオ焼き」の屋台など、食べ物屋さんも大いに賑わったといいます。

当時は、仕事帰りに飲んだ後に、
家族のお土産を買って帰るという時代。
子ども向けの「ちょぼ焼き」や「ラヂオ焼き」の屋台が多かったのにはこうした背景があるようです。

「ラヂオ焼き」の名称は
高価でハイカラの象徴だったラジオにあやかって名付けられた、
その丸い形がラジオのボタンに似ていたから
など、諸説あるようです。

大正14年(1925年)からラジオ放送が始まりましたので、
それにあやかって命名されたようですね。

また、同じように「ラジューム焼き」という名でも呼ばれていたそう。
こちらは、当時流行していたラジウム温泉に因んでいたそうです。

いずれにせよ、最先端の洒落た食べ物という意味があったんだと思われます。

今から90年前の昭和8年(1933年)
福島県会津坂下町出身の遠藤留吉氏が、大阪市内で「会津屋」の屋台を始めたのも、ちょうどこの頃。
初めはコンニャクや豆、肉などをネタに加えてみましたが、評判は今イチだったそう。

やはり、子どものおやつである「ちょぼ焼き」は、なかなか大人相手の商売にはなりませんでした。
「大人の口に合うものでなければ、商売としては厳しい。」
研究熱心だった遠藤氏は、
「よりおいしい具材はないか」と、試行錯誤。
牛スジ肉や豆、ネギやコンニャクなど、様々な食材を入れて味の研鑽に努めていました。

それから2年がたった昭和10年(1935年)、醤油味で炊いた牛肉を入れてみると、なかなか旨い。
ラヂオ焼きのメインの具材として、
牛肉を使う「肉焼き」が誕生しました。
こうして、遠藤氏の「会津屋」に、大人の客が少しずつ増えていきます。

ちょうどひと月くらいたったある日、
あるお客さんが
なにわは、肉かいな。明石は、タコ入れとるで
と教えてくれたといいます。

それをヒントに、肉の代わりにタコを入れ、醬油風味の出汁で味付けしてみると、遠藤氏のラヂオ焼きは、あっという間に人気商品に成長します。

後のインタビューで、遠藤氏は、下記のように答えています。

「ゆでたタコを小さく切って入れる。
 そのころはタコは安かったしな。
 ついでにコナを溶くときに、
 だしもいっしょに溶くようにしたんや。
 そんでちょっと高級品やったけど、
 味の素をひとつまみ入れた。
 これがめっぽううまいんでんが。」

(引用:日本コナモン協会会長・熊谷真菜氏との対談/1983年2月)

こうして、昭和10年(1935年)、
正式に「たこ焼き」という商品名で
売り出すようになりました。

翌昭和11年(1936年)からは、
赤いのれんに白く「たこ焼」と染め抜いて販売し、
戦争で疎開するまで、屋台でたこ焼を売ったとされます。

これが、現代の「たこ焼き」につながっていきます。



こうして、「たこ焼き」は誕生しました。
とはいえ、まだ戦前の話でして💦

長くなってきたので、この続きは次回
「戦後編」で書きます。

それでは、また。

最後までお付き合いいただき
ありがとうございました
m(_ _)m


(次回へつづく)


(2023年8月2日投稿)


つづきはコチラ
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