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冷泉為人氏の「和歌」の凄み――もう一つの「歌壇」に思いを馳せること

冷泉家が写本や有職故実の道具を保存する蔵を建てるためのクラウドファンディングを開始したという衝撃的なニュースを、古典クラスタのたられば氏のツイートで知りました。これがほんとの、蔵ウドファンディングや!(?)

800年にわたる和歌の家・冷泉家に土蔵を造りたい」という題目で掲載されているクラファンのページを見てみますと、プロジェクトオーナーは冷泉家当代の冷泉為人氏の妻・貴実子氏です。一昨年の台風で一部の蔵がだめになり、収蔵物を保存するのが困難な状況になっているというのが本件の背景で、なにせ冷泉家といったらそんじゃそこらの名家では敵わないお宝を持っている家ですから、これは一大事です。びっくりすることに、すでに一千万円以上の支援が集まっています。

(1)冷泉家とは何か

ではそもそも冷泉家とは何か。『国史大事典』の「冷泉家」の項目から祖述しますが(当該項目の執筆者は橋本不美男氏)、藤原為家の息子・為相を初代とする藤原氏系の家なんですね。為家というと定家の息子、定家は俊成の息子ですから、平安末期から鎌倉初期にかけて、和歌をゴリゴリにリードした系譜です。この冷泉家というのは、為家から継承した歌書等の写本、そして和歌の見識を旗印に、のちには歌道家として公認されてゆくことになった家です。祖述終わり。

なにせ定家筆の写本というのは価値が高い。当時、「作品」の本文はたいへん流動的でした。なにせ印刷技術がありませんから、すべて個人が手で写してゆくのですが、この作業をするときに本文がどんどん変わっていってしまうのです。誤記ならまだかわいいほうで、勝手に本文を変えたり、本文との境界がよくわかんないような注釈を入れたりしています。今でこそこういう写本の態度は、〈平安文学の本文は動く〉(Ⓒ片桐洋一)をキーワードに、肯定的に捉える見方も出てきているのですが、本来の作品の姿を知りたいという欲望はどうしても出てくるものです。

定家はそういう感覚を早くから持っていた人物で、校合や研究を重ねて作品のあるべき姿を伝えるということに主眼をおいた写本を生涯に何冊も残しました。『源氏物語』『更級日記』あたりの有名古典も、定家写本が活かされて現在でも読むことができるという側面があるんですね。そういう文字通り国宝級のお宝の全部が全部いまも冷泉家にあるわけではないのですが、それでも冷泉家にある本は、文学史的に重要なものが多いのです。そうじゃなきゃクラファンで一千万円も集まんないですよ。

(2)為人氏の懐紙を見てびびった

当該のクラファン、いろんな返礼品が用意されていますが、中にすごいのがありました。「当主夫妻直筆懐紙+特別見学会」コース、百万円也です。冷泉家の特別見学単体だと三十万円ですから、単純計算で一首三五万円です。馬場あき子や岡井隆の原稿料だってこんなに高くないでしょう、たぶん。

ホームページには見本として為人氏の揮毫した懐紙の写真が掲載されています。

冷泉家

正直に言いますと、最初に見たとき、「もっと頑張れ!!」と思いました。高校生が書道の授業で書く字か! という印象です。決して悪筆ではないのですが、「ほ」の字にかろうじて、かな書道の規範が見て取れるものの、あとは連綿がないどころか、ほとんど楷書になっています。こういうものは、草書の連綿体で揮毫するものです。婿養子として冷泉家に入った為人氏の苦労がしのばれます。

と、あけすけに言ってしまいましたが、けれども、と思うのです。

けれども。文化を「伝える」ときの文字って、規範的な美意識から逸脱するものだよな、と。ここで念頭に置いているのは定家の文字です。Wikipediaの「藤原定家」の項目で挙げられている『近代秀歌』の筆を見てみましょう。

定家流

大学で崩し字の翻刻をやった方ならわかると思いますが、同時代的な仮名書きの文字と比べると、相当な悪筆です。一字一字が大きく、崩し方も平易で、連綿も少ない。書道史的な言い方をすると、「定家流」とか「定家様」とかいいます。もう五年ほどまえになるでしょうか、上野某所で写本の展示があって、書道に詳しい大学の先輩に連れられて行ったとき、定家の写本があって、この汚さに驚きました。これには意味があって、定家様という概なのだと教えてくれたのはその時、その先輩です。

というのはこの定家様、早く書けるし読みやすい、という性能があるんですね。多くの作品を写本にして、その写本を文化の証明として残すという展望があった定家は、こういう字を採用することで、人生の仕事を進めていたのです。いやほんと、これ読みやすいんですよ。機会があれば他の人の写本と比べてみてください。

当時の歌壇において、『新古今集』に代表されるような知的かつ繊細な感覚をリードした定家が、美というものに無頓着であったとは思われません。単に道楽として本を写すのであれば、高級な紙に、いい墨をつかって、美しい文字で書いていったはずです。それをしないのは、文化を「伝える」という使命感があったからです。文化の継承という使命と、美の意識は、ときに両立しないものなのです。

そういうことを考えてみると、為人氏の揮毫がドチャクソ下手だというのは、あまり大した問題ではないのだと思います。多少論理の飛躍はあると思いますが、為人氏もまた、文化を継承する使命にある人物だからです。こういう人の字が綺麗かどうかというのは些末な問題です。この字もまた、文化の継承のために書かれているのです。

(3)為人氏の「和歌」を解釈する

さて、当該の為人氏の和歌は、翻字すると次の通りです。

色も香も千歳の代々に伝へゆかむとほつみ親の水茎能阿登

逐語的に解釈してゆきます。冷泉家の歌ですから、すべて歌語です。もともと和歌というのは、使える言葉が限られていて、すべて和語、しかも、俗な言葉は使ってはだめ、という規範がありました。こういう語彙を歌語といいます。歌語は不自由だからどんな言葉もOKと決めたのは近代短歌です。

歌語でいう「色」「香」というのは風情、美の謂いです。「千歳の代々」は、これからもずっと、の意。「伝へゆかむ」は「伝えてゆこう」ですね。「とほつみ親」は漢字にすると「遠つ御親」で、祖先のことです(「つ」というのは「の」を意味する古語)。「水茎」というのは、この歌の中では一番特殊な語ですが、筆を意味します。

最後の三文字「能阿登」というのは、変体仮名の字母です。明治時代のある時期まで、平仮名には一つの音に対して数種類の表記がありました。例えば「あ」という音だと、「安」や「阿」といった字をそれぞれ崩した形が何種かありました。その音の基になっている漢字を字母というふうに言います。「能阿登」というのは「のあと」ですね。ですから直前の「水茎」から続いて、「水茎のあと」すなわち、筆跡のことです。通釈しますと、先祖の筆跡に残されている美しい文化をこれからもずっと伝えてゆこう、という内容です。当然、定家や俊成をはじめとする冷泉家の文化財を造りだした先祖が想定されているはずです。

この歌、現代短歌の観点からいって全然面白くないのは当然ですが、和歌の文脈でいっても大した品ではありません。「色」「香」「千歳の代々」「水茎」といった語彙は、和歌の中でも頻出ワード。現代風にいうと類型的な表現です。ですが、為人氏にしか詠めない歌です。2020年にもなって、歌語でしか歌を詠まない人がいったい何人いるでしょうか。冷泉家の文化財を守るために、婿養子になってまでその担い手となる覚悟のある人がどれだけいるでしょうか。俊成、定家といった歴史上の歌人の気風を、ある意味ではごく身近なものとして感じ、それをいつくしむことのできる人がどれだけいるでしょうか。

この懐紙を受け取る人がいるとしたらきっと、王朝文化の精髄を散逸させなかった冷泉家の歴史に思いをはせるでしょう。この懐紙、この歌は、そのために書かれたかけがえのないものだと感じ入りました。

(4)「和歌」と「短歌」の歴史のなかで

和歌は、貴族社会とともに弱体化してゆきます。すぐれた歌人がほとんど出なかったというのが大きいのですが、根本的な問題は、芸術としては形骸化してしまったことでしょう。先に述べたとおり、和歌には歌語という規範がありました。しかも、梅といえば鶯、というふうな、発想の規範もありました。オリジナリティよりも、先行歌の表現を熟知して自作に反映させる知性が是とされていたのです。

王朝和歌の時代がおわったあとの和歌は、気風のマイナーチェンジを繰り返しながら徐々に衰退します。明治期に入って、宮中との結びつきがふたたび強靱になったタイミングで、一度若干盛り返すのですが、この時期になると西洋の諸学問の影響で、そもそも和歌というのは文学のジャンルとしては古いから改良していこう、という時代になっていきます。『国学和歌改良論』が出て、落合直文が出て、『明星』が出て、『アララギ』が出て――そうして「和歌」はいつのまにか「短歌」という全く別のジャンルになっていきました。

そんななかで、前近代の「歌道」を只管に継承する冷泉家は、特異な存在です。いま、歌の家として残っているのは冷泉家だけのはずです(このへん、詳しくないので間違っていたらコメントください)。しかしかつては歌道の家がいくつかありました。名家の生まれでなくても、そういう家に接近したり、あるいは対立したりしながら、あるべき歌の道を伝えてゆくことを使命とし、生業とした人たちがいました。かつての「歌壇」とは、そういう人たちの集合であった、ということもできるでしょう。

こうした感覚は、近代的な文学意識の前でほとんどなくなりました。けれども現代歌人は、ときに和歌を参照し、評論を書き、表現の肥やしにします。たとえば塚本邦雄はかつて昭和の終わりに〈春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状〉(『波瀾』)と書きましたが、これは『百人一首』の周防内侍の歌〈春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ〉を踏まえたものです。和歌なんてしらねえよ、という歌人もいるかもしれません。けれどもその人がたとえば「花」と詠み、「会う」と詠むとき、和歌・短歌史上の作品の蓄積がほのかに匂う、それが短歌というジャンルなのではないでしょうか。それとも、もうこんな価値観は終わったのでしょうか。

和歌を参照するとき、いまはWebでいくらでも重要な古典を閲覧することができます。図書館にいけばもっと信頼に足るテクストもあります。ほしい古典を、好きなように読むことができます。そのテクストは、前近代に「歌の道」を歩いた人たちが伝えてきたものです。明治期の知識人が、彼らなりの必然性によって笑った「歌の道」は、あるいは現代では、すでにその役割を終えているのかもしれません。その精神史を想像して、もっと感謝しよう! というのも青臭い話です。けれども、いま、短歌を詠んだり解釈したりするいとなみのなかで、ほとんど忘れられている「歌の道」の時代を想起する時間は、みずからの想像力を豊かにするものだという気がします。

冷泉家のクラファンの件を知って、そんなことを漠然と思いました。


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