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花押(かおう)の歴史【その2】戦乱の世から江戸時代に廃れるまで

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さてさて「花押(かおう)」について色々と漁っておりますが、最初に花押について概要を、続いて花押の歴史(起源から室町時代まで)を追いかけました。

未読の方は是非読んでみてください↓↓↓

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ここまでの花押の歴史ふり返り


花押の起源は、7,8世紀頃の中国(唐代)。
中国では明・清の時代を経て現在では使われなくなっている。

日本で花押が見られるようになるのは、平安時代(794-1185年)。主に貴族や官僚たちの文書で、自署の代わりに用いられていた。ちなみに、花の形のように美しいので「花押」と呼ばれる。

その後、鎌倉(1180-1336年)室町(1336-1568年)時代には武家にも広まり、形なども多様となった。一族で同じような花押を踏襲する(ex.足利様)などの風潮も見られた。また花押は、一生涯でいくつも変わることがあった。

また同じ頃、禅の僧侶の間では簡素で抽象的な花押が現れるようにもなった。


太平の世を願う花押、安土桃山時代


続いて、安土桃山時代または織豊時代(1568-1600年)。

▼安土桃山時代/織豊時代
1568年、織田信長が室町最後の将軍足利義昭を率いて入京したときから、
1600年、関ヶ原の戦で徳川家康の覇権が確立するまでの約30年間。
織田信長と豊臣の時代なので、織豊(しょくほう)時代とも呼ぶ。

世界大百科事典 第2版より抜粋)

この頃の花押の特徴は、名前の草書体を横に倒したり、裏返したりするなどの凝った作成法が見られること。偽造や盗用を避けるための工夫だと言われています。

またそれまで花押は本名や俗名から作られることがほとんどでしたが、この頃には願いを込めた文字や、名前とは無関係の具象そのものがモチーフ(鳥とか)となることもありました。


織田信長の花押

下の図は織田信長の花押。偽造や盗用を防ぐために織田信長は一生涯のうち10回くらい花押を変化させています。

初期のⅠは前回見た足利様に似ています。
信長の多くの花押のうちVやⅦが比較的有名で、これは麒麟の「麟」の草書体から作られています。この頃、麒麟は平和な世の中にしか現れないという想像上の動物だったため、この文字を用いることにより至治(しち)の世を願ったのでは、ということです。

(出典:『花押を読む』佐藤進一 (平凡社ライブラリー)p38,39)
(出典:麟草书书法字典)
ちなみに「麟」の草書体。右上のものあたりを横にするなどして・・・?

これだけ花押を重んじられ頻回に変更されたとなると、右筆(代筆する人)もいただろうけれど、花押を考える専門の側近とかもいたのかも?。今で言えばロゴマークを考える人みたいな。

余談ですが、信長活躍の地である愛知県小牧市のふるさと納税で、信長花押のタイタック(ネクタイピン)(35,000円~)を見つけましたので載せておきます↓↓

(出典:ふるさとチョイス


竹中重治(半兵衛)の花押

もう一つ似た形式で、信長や秀吉に仕えた武士・竹中重治(半兵衛)(1544-1579年)のものがあります。「千年おゝとり」(鳳)の文字がこの花押の中に納められ、先の信長同様、太平の世を願った花押であると言えましょう。

(出典:Wikipedia 「竹中重治」)

▼鳳(おおとり)
伝説上の鳥、鳳凰の雄の方。天子の、徳のある人、という意味もある。
竹中半兵衛伝 千年鳳』(本山一城 著)という漫画もあるようです。


印の花押も増える、江戸時代


江戸時代(1600-1868年)初期の頃には、それまで署名として筆で書かれていた花押が、花押の形の印としても多く用いられるようになってきます(花押の型は鎌倉時代頃からあったとか)。

木製、真鍮製等がありましたが、籠字式の花押型が盛んに使われました。

▼籠字(かごじ)
元の字の輪郭だけをなぞったもの。双鉤字(そうこうじ)、飛白(ひはく)とも言う。
輪郭内部の文字部分に墨を塗ることを塡墨(てんぼく)と言う。

精選版 日本国語大辞典
籠字式花押型のイメージ。これを押してはみ出さないように墨を塗っていた。


徳川家の花押


江戸時代、十五代もの間続いた徳川家。

▼江戸時代の15代将軍一覧と在職期間
第一代 徳川 家康 (いえやす)   1603-1605  約2年間
第二代 徳川 秀忠 (ひでただ)   1605-1623  約18年間
第三代 徳川 家光 (いえみつ)   1623-1651  約29年間
第四代 徳川 家綱 (いえつな)   1651-1680  約29年間
第五代 徳川 綱吉 (つなよし)   1680-1709  約29年間
第六代 徳川 家宣 (いえのぶ)   1709-1712  約3年間
第七代 徳川 家継 (いえつぐ)   1713-1716  約3年間
第八代 徳川 吉宗 (よしむね)   1716-1745  約29年間
第九代 徳川 家重 (いえしげ)   1745-1760  約15年間
第十代 徳川 家治 (いえはる)   1760-1786  約26年間
第十一代 徳川 家斉 (いえなり) 1787-1837  約50年間
第十二代 徳川 家慶 (いえよし) 1837-1853  約16年間
第十三代 徳川 家定 (いえさだ) 1853-1858  約5年間
第十四代 徳川 家茂 (いえもち) 1859-1866  約7年間
第十五代 徳川 慶喜 (よしのぶ) 1867-1868  約1年間

13人分の花押は以下の通り。室町時代の足利様でもそうでしたが、一族で皆似通った花押のデザインです。

(出典:『花押を読む』佐藤進一 (平凡社ライブラリー)p53-55)
慶喜以外、ですね。

その特徴は見てわかる通り、上に短めの横線、下には長めの横線があること。そしてデザインは複雑ではなくシンプル。徳川家に代表されるこのデザイン形式の花押は「徳川判」や「明朝体」(フォントの明朝体とは違います)と呼ばれます。前回の記事で触れた、中国の宋・元から渡ってきた禅僧様をに影響を受けているとか。


江戸時代の大名の花押

徳川家の将軍以外にも、各地の大名も似たような明朝体の花押を持っていました。

(出典:国立公文書館所蔵資料特別展


激減していく花押、国の重要文書にのみ残っていく


先ほど、江戸時代初期には花押の印も増えてきたと言いましたが、花押が使われるケースは江戸時代に激減していきます。

平安時代の貴族から鎌倉・室町時代の武家、農民(文字が書けない人も○や×の略押(花押の簡略版)を使うほど)にも広まり、言わば「俺のサイン」として書かれてきた花押。17世紀前半には、庶民の間で印鑑文化が台頭し、花押は急速に姿を消していきます。

また、幕府や藩に提出する、国としても重要な文書においては引き続いて花押が使われますが、一般の町レベルの公文書では使われなくなっていきました。

実質、国の一部の文書のみを残して、花押文化は江戸時代で終わりを告げることとなったのです。



次回最終回、明治以降の花押の取り扱い、その他花押のこぼれ話をしたいと思います。


参考文献:『花押を読む』佐藤進一 (平凡社ライブラリー)


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