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「池鯉鮒 首夏馬市」−コソコソとそこそこな値段で馬を飼うらしい−『東海道五十三次』
母親は雨女なので今朝しばらく曇りだった中で出かけていきましたが、5分後くらいに暴風雨になっていました。
一緒に美術館に行くときやご飯に出かけるとき、母親自身がLIVEに出かけるときは8割雨です。
今日も「かわいそう」とLINEを送っておきました。
何か天候系のお祓いができる神社を探しておいてあげようかなと思っています。笑
そんな雨女を憐れむ今日も広重。今回は『東海道五十三次』の「池鯉鮒 首夏馬市」です。
![](https://assets.st-note.com/img/1663643654845-10kqJPc1DF.png?width=800)
◼️ファーストインプレッション
人間の数より馬の数の方が多そうですね。
そういえばこの題名は「池鯉鮒(ちりゅう)首夏馬市(しゅかうまいち)」です。
聞いたことない読み方で初見だと読むのは無理ですね。
画面手前に27頭の馬がいます。
彼らはいろんな方向を向いているので統一性はなく、ばらばらとした印象です。
ほとんどが下を向いて、馬なりに何かに夢中になっているのでしょうけれど彼らを引き連れる人間三人は同じところを見ています。
右奥の方を三人が目を向けていることでそこに私たちの視線も引き込まれます。
その先には一本の木の下にいる集団。
彼らは大名行列ではなさそうなので何か特定の集団であることが予想されます。
人間と馬がこれから何か交流することがありそうな光景ですが、自然描写も魅力的。
画面下半分に広がる草原は風の吹いている方向もわかるほど細かに描かれ、まるで自分もその風にそよいでいるような印象を受けます。
空もオレンジ色や青が重ねられて、夏の夕方の涼しい温度を感じられます。
草原も青々としていて、馬もたくさん配置されて、画面の真ん中に大きなきが置かれていることも加えて画面全体に生命力が満ち溢れている印象です。
夕方の寂しさや不安感は残りますが、生き生きとした空間が広がっています。
今回は池鯉鮒の場所と馬がこんなにいる理由についてみていきたいと思います。
◼️池鯉鮒
さて、この難しい読み方の地名が今も残っているのでしょうか。
![](https://assets.st-note.com/img/1663645347062-0OmhmqVgf6.png?width=800)
赤ピンが池鯉鮒宿です。
前回の岡崎は右下の岡崎公園から矢作橋の間の橋です。
直線距離でおよそ12キロ。
で、この近辺をよくみてみると池鯉鮒と記された地名がないのです。ちりゅうと読みますが、それに該当するのが知立と記されているところ。
池鯉鮒(現知立)が東海道の宿駅として発足したのは、関ヶ原合戦の翌、慶長6年(1601)のことです。古代から知立神社を氏神として城砦を構え、馬市場の開かれる農村だった池鯉鮒は、この時を転機として、東海道交通の要務をになう宿場町の活動を開始することとなりました。
東海道五十三次が完成したのは、寛永10年(1633)になってからである。この間の30余年間は宿駅制度の改訂が度々行なわれています。
同じ読みでも何故こうも絶対に読めない読み方を思いついたのでしょう笑。
そしてここ知立(変換が大変なのでこっちで…)は馬市場として賑わっていたそう。
これを詳しくみてみましょう。
https://chiryu-bunka.org/wp-content/uploads/2019/01/池鯉鮒の馬市.pdf
こちらのPDFには知立の馬市について描かれています。
池鯉鮒の「馬市」について記した文献の早期の ものに、万治 3 年(1660)頃成立の浅井了意著『東 海道名所記』があり、「毎年 4 月のうちは馬市あり」 と記されています。
1600年頃の江戸時代初期からあったということで、今回描かれた馬市はだいぶその方法が確立している時期のものであることがわかりますね。
そしてその後に記述されていますが、この馬市は木綿市が契機となって始まったらしい。
池鯉鮒の木綿市については、元禄 5 年(1692)に松尾芭蕉が「不断たつ池鯉鮒の宿の木綿市※」と詠んでいます(現在この句碑が知立神 社にあります)。
※「不断たつ」とは絶え間なく市がたっているという意味です。そう表現するほどに木綿市は盛んに開かれていたようで、 『東海道名所図会』によれば、その木綿は江戸では「池付白」として知られていました。また元禄宝永(1688~1711)の頃ま では、池鯉鮒宿には春夏秋冬、さまざまな市がたち、大変賑わっていたようです。
芭蕉の句にもなるほど名物的な光景だったのでしょう。
そして街道の松並木の北側に馬を集めて馬を飼う馬喰たちがそこに集ってくるようなイメージで開催されていたようです。
今回の絵にも描かれている一本の松に集まっている人々が馬喰ということです。
彼らが集まる松を「談合松」と言ったそう。
ここで値段交渉をして自分の欲しい馬を持って帰ったそう。
彼らは商取引をしていたのですね。
不思議なのが、馬を見定めることはせずに少し遠くから値段交渉をすること。
欲しいものだったらもっと近くで悩んで決めたいですよね。
上のPDFは馬市について非常に詳しく書かれています。どのように取引したか、明治以降はどうなったのか等情報がたくさんですのでぜひみてみてください。
このPDFをコピーばかりするのもよろしくないので今日はここらへんで。
今日はここまで!
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