「水口 名物干瓢」–名物だったのか、名物にしたのか、–『東海道五十三次』
10月に月が変わって、ペイディやクレジットでの支払いが先延ばしになるので秋服や本やらを一気に購入しました。
10月1日で日付が変わってすぐに購入したので最近それらがひっきりなしに届いています。(ひっきりなしとは言っても数件とか、、笑)
秋服や冬服は去年ほとんど購入してなかったし、ブーツに関してはGUのものを3年持ち続けていました。GUで3年も持つって結構物持ちいい気がします笑。そのブーツもつま先が禿げ始めていたのでそろそろ交換どきです。3年もよく頑張りました。。。
新しいブーツの靴擦れが心配な今日も広重。今回は『東海道五十三次』の「水口 名物干瓢」です。
◼️ファーストインプレッション
これまでこうした宿場の中を描くときは旅籠で旅人を受け入れる人間たちを描いてきましたね。しかし今回は此地で生活する人々を描いています。
名物の干瓢を栽培してそれを干して食べられるように加工している様子が描きこまれ、ここが東海道であるというよりも一つの村の中の様子を描いてるかのように感じます。
こうして人々が生活している中に旅人が通っているのも、当時の旅が必ずしも東海道という旅人用の道を歩いていくだけではないことを実感させますね。
こうしてアウェイな生活圏の中に入っていくだけで異郷に入り込んで心細くなったりしそうです。
しかし当時の人々はそれを興味深いものだと捉えて絵に描いたり、言葉にして残したりしていたのですね。
手前の女性三人の作業を見ると、私たちの知っている干瓢ができるまでの工程がよくわかります。
一番左の子供をおぶった女性が丸々の実を持って用意をしています。
真ん中の女性はその実の皮を剥いてから細く切っていきます。
一番右の女性はその切られたウリを干しています。
こうして干瓢が出来上がっていくのですね。
その工程を終えた家が画面右に描かれています。このような民家が並んでいるとやはりここの名物を描かないわけにはいきませんよね。
旅と人々の生活の混在を書き上げた作品です。
今回は水口の位置と、水口の干瓢が江戸時代ではどのように認識されていたのかを見ていきます。
◼️水口
前回は土山でした。
どこというピンポイントな場所ではなかったので特定は難しかったですが、鈴鹿馬子唄という歌で坂下は晴れていても土山は雨が降りがちということが分かりましたね。
峠を越えて天候が変わりやすいという旨でした。
水口は土山からどれくらいの距離のところにあるのでしょうか。
右下の赤ピンが土山宿土山家本陣跡です。
およその位置ではあります。
画面左の赤ピン群の中に「東海道水口宿見附跡」など、水口宿のあった跡が点在しています。
そこまで離れていないようですね。直線で9キロほど。
ここの東海道は川沿いに進めばいいので迷うことはなさそう。そもそも道標とかあるので迷うことはにだろうけど、川沿いに行けば辿り着くので安心しますよね。
地図を見て気づきましたが、ここ水口は「ミズクチ」ではなく「ミナクチ」と読むのですね。
◼️水口の干瓢
水口の名物である干瓢は江戸時代当時、どのような認識をされていたのでしょうか。
辞典にはこの程度しか説明がないので水口の何かしらのHPに頼ります。
400年前というと1600年代、17世紀からもうすでに名産であったということですね。広重が描いた頃にはすでに名物として定着して、名産であるからこそ狙って描いた可能性が高いですね。
いや、そうでもないみたい。
広重が描いてから有名になったとあります。
『近江名所図会一』です。
特に干瓢関連のことは書かれていませんね。
『近江名所図会一』です。
こちらの真ん中に水口について記載がありますが、名産やその場所の特徴などではなく水口蓮花寺についてしか記載がありません。
1815年の刊行物ではありますが、やはり広重が描くまで名物として全国的に知られてはいなかったのでしょうか。
もし本当に広重が描いてから有名になったというのであれば、当時の浮世絵の広告力の凄まじさがよく分かります。
なんだか干瓢巻が食べたくなってきたな、、。
今日はここまで!
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