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デザインは差別されているか

美術系の勉強をしたことのある方なら、ほとんど経験していると思うけれど、まず最初に「アート系かデザイン系か?」という進路の選択を迫られる。
アート系は純粋芸術と訳され、デザイン系は応用芸術や商業美術などと呼ばれることが多い。
自分は高校生の時(1982〜1985)に、隣町にある「武蔵野美術学院」に非常勤講師時代を含めると計5年間通ったことがあるのだが、「デザインの連中は軽い」と、アート系の友人に言われて、その中に潜む差別意識を感じたことを今でも鮮明に覚えている。
(自分はデザイン系の人間である。)

時は流れて2023年。地元で開かれている「高校美術展」の審査結果を見て愕然とした。デザイン系の学生の出品点数120に対して、入選点数は54。単純計算で45%の難関だ。それに対してアート系の洋画は440に対して312、70%は入選する。日本画に至っては100%だ。

高校美術展の審査結果

この結果に対して、洋画のフィールドで永年にわたり活躍されてきた重鎮の某先生に尋ねてみた。「絵筆を持った瞬間、絵の具がキャンバスに触れた瞬間に作家の考えは消え失せてしまう」というお考えだそうだ。確かに、感情の胎動(のようなもの)をカタチに置き換え、画面に書き写すという行為には、どこか無理がある。個人差はあるものの、作家と呼ばれる人たちは、同じような悩みの中で作り続けているのだろうと思う。

絵筆とキャンバスという関係性の中で、作品を評価する歴史はそれなりに長いのであろう。それが1990年代以降、デジタルツールの登場によって物質から解放されることになった。そんな中で生まれ、プリントアウトされたデジタル作品を鑑賞する歴史は、まあ30年くらいだと思う。(ここでのデジタル作品はデザインの文脈に含まれることを前提としています)。本来はプリントアウトする必要はなく、展覧会用にプリントせざるを得ないだけなんだけど。
そんな歴史の圧倒的な差が、高校生の作り出す作品への評価へリンクしているのだとしたら、若者たちはそんな結果を全く気にすることはないと思う。
おじさんたちに理解されなくてもいいのではないかな。

とは言っても高校生は大学進学を控えているから必死だ。「入選する/しない」は、推薦入試やポートフォリオ作りに影響してくる。
また、自分が学んでいた大学で言うと、デザイン系の募集人員はアート系の約3倍。鹿児島でデザインを学ぶ学生が取り残されていると感じているのは自分だけではないだろう。

自分は、パソコンを使って絵を描くことは、脳内を飛び交う電気信号を電気信号に置き換えて表現できるという点で、絵の具を使うよりも純度は高いと思っている。
物質感、肌触りという点ではアナログの強さに負けてしまうだけであって「創作意欲そのもの」を公平に感じられる視線・評価軸を、まだ人類(特に審査員の方々)は獲得できていないだけだ。身体性と芸術の関係性も時代と共に変わりつつある。

現在、自分は展覧会の会期中で、アナログ作品とデジタル作品の解説・ギャラリートークを行なっている。どちらにも思い入れがあるし、良い点悪い点もそれぞれに存在している。
来場者の方々の反応は様々だが、アナログの場合は「よくこんなの描きましたね」というニュアンスで褒められることが多く、デジタル作品は「どうやって描くんですか」という質問が多いように感じる。
同じテーマで描いていても、感じ方そのものには差が生まれてしまう。
展覧会では、アート寄りの作品と、デザインの成果物が並んでいる。ここに差別はなく、全て自分が作ってきたものとしてフラットな関係性を保っている。
アート系のデジタル作品、デザイン系のアナログ作品が混在しているわけだから、技法や画材によって差別・区別するという感覚は、自分の中にはない。

「デザインは軽いのか?」という高校生の頃の悩みは、還暦が視野に入ってきた現在ではほとんどどうでもよく、本人がどう生きているのか?が一番重要になってきた。
そんな中でも自分が「イラストレーター」(デザインの文脈)と名乗り続けることには意味がある。この話は長くなるから、また何かの機会に記したいと思う。

展覧会場で販売されている新作「U.F.O.STONE」



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