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炊飯器かあさん

「あたし、炊飯器の中で生まれたんだよね」「……え?」昨日殺した男の顔がふと脳裏をよぎった。思い出そうとしても、表情や顔の輪郭が霞んでいる。「いや、今のはたとえ。母親が毎日ご飯を炊く以外何もしてなかったの。ずっと自分の部屋に閉じこもっていて、何をしてるのか全然わかんなくて。だから、あたしは母親を炊飯器の一部だと思うことにしてたの」「自分の部屋にも炊飯器があったとか、そっちでもご飯を炊いてたんじゃないか」「ねえ、なんで人を殺してるの?」女はつまらなそうに笑った。その笑顔には、微かな寂しさが滲んでいた。「それは、かわいそうだから。言葉よりも、肉体に教えた方が早いというか、相手も理解するしね」ちょうどラジオから12時の時報が流れた。外は快晴である。


「あたし、自殺生配信をしようと思ってるの」「すごいね。自殺はできても、自殺生配信はできないからね。残すんだね、衝撃を」「この世に自分を刻み付けるの。それが、たったひとつの人間が生きる意味だからさ」「正しいよ。でも、なんで死ぬの?」しばらく沈黙が続き、女は目を伏せた。二の腕は細く、線香のように洗練されている。彼女はそれを隠そうとしていない。指先が軽く震えているのが見て取れる。「太っちゃうからなの」その言葉には、単なる見た目の問題以上の重みが含まれていた。「人間は、太るよね」 「そうなの」彼女は小さく息を吐いた後、続けた。「昔からね、太るのが怖かったの。母親がいつも言ってた。『美しくない女は価値がない』って。だから、食べることが恐怖になった。でも、食べないと生きられない。自分が崩れていくのを感じながら生き続けることが、もう耐えられないの」彼女の声が震えているのを聞き、僕は一瞬言葉を失った。その場の静寂が二人の間を埋めていた。「それで僕に殺しの依頼を? 銃はちゃんと持ってきたよ」「今から配信で飛び降りるんだけど、配信中にバレないように殺してほしい。具体的には、地面にぶつかる前に撃ってほしいの。自殺に見せかけた他殺生配信がしたいの」日差しが店内を包み込んだ。木のテーブルに映った光が揺れ、笑顔のように見えた。それに釣られて、僕も微笑んだ。「一つ上を行くんだね」「差別化よ。あたし、差別だけは嫌いになれない」「でもね、僕は死にたいと思ってる人を殺すのはポリシーに反するんだ。僕がするのは、分かってない人に対してだけだ。君は…なんというか、わきまえている」「社長令嬢なの」「それが何だ?」「1000万出す」「やるよ」真剣な表情を作り直し、もう一度言った。「ぜひやらせていただきたい。1000万は、ヤバイからやるよ」突然、後ろの老人が咳をし始めた。老人が席を立ち、僕たちだけがその定食屋の客になった。依然として、空は青いままだ。頭痛が始まり、昨日殺した男の顔がもう思い出せない。「取引成立ね」「取引という言葉は嫌いだ。約束と言ってくれないか?」「じゃあ、約束」「約束だったな、たしか」彼女の額に銃を向けた瞬間、僕の指が僅かに震えた。彼女の顔に一瞬驚きが浮かび、次の瞬間、引き金は引かれた。耳を突き刺すような銃声が店内に響く。その直後、厨房から炊飯器の電子音が不気味に響き渡った。ご飯が炊けたのだ。「今、生まれたんだよね。君。君?」女は椅子にのけぞったまま、反応しない。眼は虚空を見つめたままだった。「あるいは、君と同じ類いの人間が、こんなにも、こんな量の米粒、この世に?」1000万をもらい損ねた。

銭ズラ