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ちっちゃいミントの葉っぱと、ローズマリーの花と、宵待草。思い出とおもひで。

遠くで雷の音がする。なんて不穏でロマンチック。昔の人が雲を見上げて、その上の「何か」を想像したのもわかる気がする。いや、見えないだけでほんとに何かあるのかも。

挿木したミント。
このちっちゃい葉っぱを見てほしい。
クー、ちっちゃいとなんでも愛らしい。

朝のルーティン、ベランダ植物巡回も終わって、一息。
昨日からクーラー入れっぱなしだけど、体には悪いのかなあ、それとも暑くてハアハアするよりはいいのかなあ。あーこういう時「それはねっ」て答えてくれる人が恋しい。万が一、その答えが正しくなくても、その人がそう言うのなら、きっとそうだって思える人。

私のお母さんの名前はイカしてる。おじいちゃんが十六夜の月からつけた。まんまるな十五夜の月から少しだけ欠け始めた月が、ためらいがちで美しくて好きなんだって。
今までいろんな人に会ったけど、同じ名前の人と読みの人(十六をイザとは読まない)に会ったことがない。
以前、お母さんの名前の漢字が必要なことがあって、カード会社のコンシェルジュに聞かれた時「〇〇って書きます。」と言ったら「素敵なお名前ですね。」と褒められて、自分のことじゃないのに嬉しかった。
ちなみにお母さんのお姉さんは吟遊詩人からとった「吟」を使った名前。おじいじゃん、夢見る夢子ちゃんだったんだね。

ちなみに、いい大人の私がいつも両親を「お父さん」「お母さん」と書くのは子供帰りしてるわけではなくて「父」「母」と書くとなんだか違う人みたいになってしまうから。それだけのことで深い意味はない。

ローズマリーにも花が咲いてた。
よく陽に当たる方にだけ咲いてたので、移動させるまで気づかなかった。

何年か前、ニューヨークに行ってる大切な数少ない友人で作家でもある人が、亡くなったと連絡が入った。連絡が入った時、なぜだかすぐに自分からそれを選んだなと感じた。どうしてそう思ったかうまく説明はできない。もちろん、普段からそういう感じの人だったわけでもない。

その人のお父さんとも知り合いだった。憔悴しきった声の電話で教えてくれた。
遺書の中に「〇〇さん、ありがとうございました。」と書かれていました。と。
それを聞いて、自分の役立たずさ加減に猛然と腹が立った。その瞬間に私のことを思い出してくれたのに、それなのに私はそれを辞めさせるきっかけにすらなれない存在なんだと。役立たずにも程がある。
考えても仕方のないことがぐるぐるした。
「なぜ?」「どうして?」

そのことをお父さんに話した。珍しく弱気になって、ぐちゃぐちゃな自分を見せた。その時のお父さんの言葉が私に突き刺さった。
「作品制作に行き詰まったのか?」
ああ、この人は私のお父さんだ。
私はそんな理由があるかもしれないことすら思いつきもしなかった。
お父さんは彼女のことも彼女の作品も知っていた。私がいろいろ話して聞かせる数少ない人の1人だったから。

何が言いたいんだろう。
どうしても彼女の誕生日が来ると繰り返し、繰り返す。
どんな理由かはもうどうでもいい。最近ではその子の面白いエビソードなんかを思い出して笑える様になったし、彼女の作品はここにある。
何より、ちょっとだけでも書くことができるようになるなんて、すごい事だと思う。まだ、いっぱいは書けないけれど。

でも、あの時のお父さんの言葉は、ギャラリーをやってる私にとっても、彼女にとってもなんだか嬉しいと言ったら語弊があるし、そうだとしてもダメなんだけれど、そういう理由じゃなかったとしても「ホントノコト」なんて誰にもわからないんだから、それでいいと思わせてくれる言葉だった。
柿泥棒のくせに、純粋で綺麗な心を持っている。

話ついでに暴露すると、お父さんはお母さんに一目惚れした。
おじいちゃんが持ってた映画館に、今でいう初日挨拶みたいなことで佐久間良子が来たらしい。
その時、エスコートして舞台に一緒に上がったのがお母さん。
ここからは恋に落ちた馬鹿な若造の話だと、笑って聞いてあげてください。
お父さんは佐久間良子さんよりお母さんの方が綺麗だと思ったそうです。笑。
白くて華奢で今にも消えてしまいそうだったと。すみません。
そこで、慌てて会社の後輩を集めて、
「あの人と食事ができるようにセッティングしてくれたら、来月の給料を全部あげる。」と。その頃はサラリーマンだった。

それを聞いた後輩たちは、手を変え品を変え、お母さんにアタックするわけですよ。なんせ先輩の給料1ヶ月分もらえる訳ですから。その時、その人たちがそんな話に踊らされたからといって、強引な手を使うような人たちじゃなかった事が、せめてもの救い。

優秀な後輩のおかげで(自分で誘えばいいのに)めでたくデートに漕ぎ着けたお父さんは、後輩にこう言います。
「レコードをプレゼントしたいから、その分だけは引かせてくれ。」と。
宵越しの金を持たない人だから(私はそれを受け継いでいる)お給料からその分を引いて宣言通りお給料1ヶ月分という賞金をその良く出来ました後輩にあげた。

のちに、お母さんの好きなお父さんの笑い話の一つとして、花束とレコードを抱えて食事に来たお父さんは、食事中何も話さず、食事が終わった時、食事代を払うお金を持ってなかったっていう話。
お母さん、それでよくお父さんと結婚したね。実を言うとお母さんはその頃、他にも世間でいうところのいい感じの御子息とかと縁談が持ち上がっていた。そんないい感じの御子息と結婚してたら、私も柿泥棒とかしない、もっといい感じな女性として生まれてたかもしれないのに。
いや、待て、生まれて来ないの?

思い出っていいね。いい思い出もそうとは言えない思い出も、時間が経てばいい感じにお話できる。多分、ものすごく嫌なことがあっても、ちょっとだけ知らんぷりして誤魔化してやり過ごせば「あーあの時ね、そうそう。」って言える時が来ると思うんだけどな。

ちなみにプレゼントのレコードはなんと「宵待草」。
若い時からジャズ好きだったお父さんがなぜそのレコード?

待てど暮せど 来ぬ人を
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬそうな

私の頭。何回も聞かされた話だから空で書ける。

お母さんとのデートに漕ぎ着けるまでの間に、行きつけのレコード屋さんに行った時この歌が流れてて、お母さんへの想いと自分の思いが重なって泣きそうになったらしい。多分、泣いたね。
ああ、恋とは如何なるもの。
それで、これに決めたんだと。
歌詞からして相当好きな感じはわかるけど、竹久夢二はこの歌を書いた時、失恋してるし、この歌でも2番では確実に失恋してる。

お母さんは童謡が好きな人だったから、いっぱい歌って聞かせてくれてた。偶然、そんなところにキューピットの矢が刺さったのかもね。2番の歌詞は西條八十が書いてるし。(西條八十の「かなりや」を歌ってもらうときは、絶対最後まで歌ってもらってた。でないとやるせなくて。)

結婚してから、応接間の棚に増殖し続けるジャズのレコードと、アンプやらスピーカーやらは、お母さんの目にはどう映っていたのだろう。
おまけに、いつも私を膝に乗せてそれを聞かせるお父さんも。

でもなあ、こんな感じで好きになってもらったことないなあ。ちょっと羨ましい。
ここは一つ、実はあったんだけど、私が気づいてなかっただけって事にして、いい思い出にすり替えよう。



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