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鬼滅の刃に見る死生観~我妻善逸
「好きな人や大切な人は漠然と、明日も明後日も生きてる気がする。それはただの願望でしかなくて、絶対だよと約束されたものではないのに、人はどうしてか、そう思い込んでしまうんだ。」
鬼滅の刃17巻143話「怒り」我妻善逸
栗花落カナヲが、上弦の二の鬼童麿と対決しているとき、ト書きで挿入される我妻善逸のセリフです。
「人の命には限りがある」
ということは、みんな知っています。それがなんとなく受け入れられるのは、直接知らない人、すなわち「三人称」の死の場合。自分が知っている人、近しい人の死ほど、受け入れられず、心が拒否します。つまり「二人称」「一人称」の死は、とてもじゃないけど、受け入れられないってこと。それが、我妻善逸のセリフにそのまま反映されています。
この「一人称」「二人称」「三人称」の死という概念は、養老孟子氏が著書「死の壁」の中で語っています。
「無常を観ずるは菩提心のはじめなり」(釈尊)
「いつまでも続く命はない。常に移り変わっていく=無常」を自分の命も同じだと思うことが、本当の幸せへの始まりなんだよ。とお釈迦様もおっしゃっているんですね。
誰からも教わったことがないであろう無常観を、我妻善逸は、今までの人生や鬼との闘いを通じて身につけたのではないでしょうか。
鬼滅の刃の死生観は、本当にしびれます。
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