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台東区の避難所ホームレス受け入れ拒否騒動、悪いのは台東区だけか? #1

台東区の避難所ホームレス受け入れ拒否騒動、悪いのは台東区だけか?
#1  https://note.mu/oharan/n/n776bbed21bc2
#2 https://note.mu/oharan/n/n24f01a034ea6
#3 https://note.mu/oharan/n/n9b6a6379835a


今回の台風騒動の中で少し気になるニュースが流れていた。
なんでも台東区の避難所が、「住所が分からないから」を理由に、ホームレスの受け入れを拒否したというのだ。

これに対し、台東区に批判の声が向けられているのだが、どうにも私はこの話を台東区だけの責任としてしまうのは筋違いな気がしてならない。

そこで、今回は東京都のホームレスを含む生活困窮者や社会的弱者が、歴史的に世の中からどう扱われてきたのかを考えてみよう。
それによって「誰がどう悪いのよ?」という、世間の皆様が最も見たくない現実が浮かび上がってくるに違いない。

「歴史的に押し付け合いしてたよね?」という説明をするために養育院の話をしよう

生まれも育ちも板橋区で、板橋区の専門家なんて肩書きでライター活動をしている人間として、まず最初に取り上げたいのは 「養育院」である。

この養育院とは、今でこそ老人医療の専門病院(東京都健康長寿医療センター)として生まれ変わったが、遠く大正・昭和の時代にはホームレスなどの社会的弱者だけではなく、ハンセン病・結核・精神病などを患った人間を隔離するための施設という側面もあった。
早い話が「ごく普通の一般市民の皆様が近くに置きたくない人間をかき集めて閉じ込める施設」それが養育院だったのである。

この養育院は言ってみれば江戸・東京の街の福祉の始まりというべき施設だったのだが、様々な理由で常にあっちこっちを転々とさせられていた。

養育院の流浪の歴史

養育院が誕生したのは明治5年。本郷の加賀藩上屋敷跡(現・東京大学)の一角に作られた。そもそも何故この時期に養育院が作られたかというと「海外の要人が日本を訪れるのに、街に浮浪者や孤児がうろついてたら恥ずかしいから、どっかに閉じ込めとけ」という理由である(この前身となる存在や概念としては、松平定信の時代からあったという事も併記しておく)。

そうして建てられた養育院だったが、そういう始まり方をした施設だけに周辺住民が嫌がったり、収容者が増え過ぎて手狭になってしまったりと、一か所に腰をすえるという事が出来なかった。
本郷にいたのは要人が日本を去るまでのほんの5日間で、その後は浅草溜(千束)に移された。ちなみに溜(ため)というのは、病気になった囚人や浮浪者などを収容する施設で、そこを管理するのは「非人のお仕事」とされていた。この時期の養育院というのは ”そういう扱い” なのである。

明治6年になると、上野の護国院(現・東京芸術大学)に敷地を確保し、そこに移動。さらに上野の次は神田和泉町(秋葉原近くの三井記念病院の辺り)、本所長岡町(墨田区石原4丁目)と流浪の旅を続けるも、大塚辻町(新大塚駅近くの大塚公園・大塚病院一帯)に移ったところでやっと腰を落ち着け、その時代に各地により専門的(病気や用途など)な分院を建てて行った。

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