僕が見た世界【ネパール エベレスト街道】No.4
2018年11月17日
三日目(パクディン ~ ナムチェバザール)
■出発
朝6時半起床。昨夜はwifiサービスを利用しなかったため、妻には連絡出来なかった。
山の夜は早く、22時には寝ていたようだ。お陰様で充分休みが確保でき、これまでの睡眠不足も解消できた気がする。心なしか体は軽かった。
今日はパクディン(Phakding,2610m)から、ナムチェバザール(Namche Bazar,3440m)まで行く。約6~7時間、標高差800m程の行程だ。
昨日の午後に谷を覆っていた厚い雲はすっかり無くなっていた。早朝部屋の窓から眺めた美しい朝焼けは、今日が良い一日であることを予感させた。
荷物をまとめ、朝食を食べて出発した。時計は8時を示していた。
■世界の屋根へ向かって
僕達はドゥッコシ川に沿って歩いた。ミルクリバーと言われる通り、川の水は少し青みがかった乳白色だった。いつの頃からそう呼ばれたのかは分からないが、その名に嘘偽り無い川だ。
標高2600mと言うと、日本で言うとどのくらいだろうか。調べてみると、中央アルプスの木曽駒ヶ岳の登山口、駒ヶ岳ロープウェイ千畳敷駅が2610mで、パクディンと同じ標高に当たることがわかった。違うのは今日の目的地ナムチェバザールは木曽駒ヶ岳の標高2956mをゆうに越える3440mだと言うこと。中央アルプス最高峰をもってしても、エベレスト街道の一つの町に及ばないと言うのだから、ヒマラヤのスケールに驚く。何より、そこまで登ってもまだ森林限界に至らないこと、そこに町があり、人の営みがあることが想像がつかない。
僕はいよいよ、【世界の屋根】と呼ばれるヒマラヤ山脈を擁するサガルマータ国立公園に足を踏み入れたのだ。
ただ、この時点でそれほど実感は無かった。それもそのはず。僕の目の前にはひたすら森と、川と、道が続き、足元にはゾッキョの糞があるだけだったのだから。
歩き始めの谷間には、まだ太陽の光は差してこなかった。夜のうちに溜まりこんだひんやりとした空気が頬を撫でる。それは概ね快適だった。ゾッキョの糞の臭いを除いては。気持ち湿気を纏っていたからだろうか、ゾッキョの香りは心なしか新鮮で生々しく感じた。
■よくいる顔
歩いて3時間程したところで、ジョルサレで僕達は休憩をした。
ロッジはわりあい混み合っていた。どこに座ればいいのか決めあぐねていると、サハデが「こっちに来ればいいよ」と手招きしてくれた。誘われた先にはポーターやガイドがいた。どうやら、トレッカーが座る表の食堂ではなく、裏方が食事をする台所のようだった。僕はそこで、若いシェルパ夫婦が大量のチョウミン(ネパールの焼きそばのようなもの)を作るのを間近で見ながら食事をすることになった。
「こんなにたくさんの焼きそばを、良くいっぺんに作るなぁ」と感心して見ていた。飲食に携わっているから、僕もこの手の仕事は気になってしまう。魅入っていると、それに気付いた旦那が照れ臭そうに笑った。女将さんがサハデに何か伝えた。
サハデは言った。
「君の顔は私達に良く似ている。だって!」
僕の顔は良く「友達にいそうな顔」と例えられるが、どうやらそれはシェルパも例外でないようだ。ワールドワイドに「周りにいそうな顔」らしい。
■遥かなるエベレスト
高い崖に2つ掛けられた吊り橋の高い方を渡る。何でもここは、元々あった低い吊り橋が壊れてしまったため、上に新しいものを掛けたとか。ヒラリーブリッジだと言っていた。正直なところ高い吊り橋は苦手だ。どうしても落ちたときのことを考えてしまう。正面から馬が渡ってきたときなんて、僕に出来ることは祈ることくらいしかなかった。
僕達はぐんぐん歩いた。まだ高度障害を気にするような標高では無かった。
やがてたくさんの登山客がたむろする広場に出た。どうやら、木々の間からエベレストが見えるらしい。
人々が向けたカメラの先に、うっすらと頂が見えた。それが、僕とエベレストの初めてのご対面だった。雲の切れ間から少しだけ顔を覗かせていた。あまりに少し過ぎて、それが世界一の山だとは俄には信じられなかった。だが、間違いなく世界最高峰の山なのだ。
■旅と向き合うこと
ナムチェバザールまでの道中、たくさんのトレッカーに出会った。その多くは中高年の欧米人、その次が欧米の若者。日本人は圧倒的に少なくて、同年代はまだ一人も見かけることすらなかった。
「こんなに素晴らしい道は若いうちに一度経験出来たら良いのに。」と思った。だが同時に、それは日本で企業に勤める一般サラリーマンには難しいことなのだろうとも思った。
日本の若者は、来たくても来られない。
仕事に穴は開けられない。2週間も休むなんて、社会の常識が許さないだろう。
それが日本人のトレッカーに中高年が多い理由なのだと思った。
それはそうだ。働き盛りの20代30代は、仕事に忙しいのだから。その点僕は幸運だった。この旅は独立前の有給消化で、会社の社長と、同僚の協力と理解があってこそなし得たものだ。あ、あとは忘れてはならない妻の協力も。
人の価値観はそれぞれだからとやかく言うつもりはないが、僕は一度きりの人生なら納得の行く旅がしたいと思っている。人に自慢できるような豪華なものでなくても良いから、自分と向き合える時間が取れる旅にしたい。これが僕のポリシーだった。
その点においても、このエベレストへと続く道は最善の選択だったと思う。ここには、いわゆる日本の東京のように、物資に溢れていると言うことがまずない。むしろ、現代社会で生きていると「足りない」と感じることさえあるのかもしれない。ここでは、嫌が応にも自分と向き合わざるを得ないのだから。
【どこへ行い、何をしたか】よりも、【何を考え、何をしたか】を大切にしたい。
■到着
長い長い急な坂を登りきると、急に視界は開けた。周囲をぐるりと山に囲まれた斜面に、たくさんの色とりどりの建物が並んでいる。ナムチェバザールへ到着したのだった。
心なしか空気が薄く感じる程度で、特に体調に変化はない。確実に標高は上がって酸素は薄くなってくるだろうが、今日のところは元気があり余っているうちに終われた。
標高3440mのナムチェバザールは、これまでの集落とは違い、もはや街と言っていいほど賑わっていた。観光客が多く、土産物屋、本屋、薬屋、銀行、飲食店、道具屋と何でもあった。富士山に近い標高にこれだけの街があると言うことに、僕はただただ驚くばかりだった。
僕とサハデは宿へと向かって行った。見上げると東側にタムセルク(Thamserku 6,608m)、西側にはコンデ・リ(Kongde Ri,6184m)が聳え立っていた。どちらも6000mを超える山で、まるでナムチェを守るように取り囲んでいる。
それにしても人は多い。そして、カトマンズ以来の街らしい街に、僕の心は浮かれていた。早く街を探検しに歩いてみたいなぁ。
そんな僕の心を知ってか知らずか、サハデは言った。「もうすぐ着くよ。休憩の後、街を見てきたら良い。」
嬉しくてたまらない。僕は重たい荷物をゆすりながら、早足で彼を追いかけた。
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