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非常時と身体性の回復

震災の記憶

9年前の今日、私はカナダの北極圏にいた。友人と二人で、1600kmにわたる北極の徒歩冒険行を控え、現地の村でトレーニングをしている最中だった。

数日の海氷上での訓練を終え、村に戻った我々はネット経由で一つのニュースを見た。それは「宮城県沖で地震」という速報だった。

宮城県沖の地震なんてしょっちゅう起きるものなので、最初はあまり意識をしていなかった。しかし、直後から飛び込んでくる続報のその数と、そして只事ならざる気配を感じ、ニュース画面に釘付けになりながら次々に報じられる様子を追った。

東日本大震災だった。あの時の、遠く離れた場所にいて何もできない無力感は今でもはっきり覚えている。

震災によって亡くなった方、また未だに行方不明の方が数多くいることは非常に悲しいことだ。震災後、私も岩手県の被災地に友人たちと赴いた。破壊された防潮堤や、更地となった住宅街を見ると、本当に心が痛む。しかし、我々日本人はこの土地で生きている。地震は必ず、また発生する。その時に私たちの命を守るものは何か?その一つは、人間の「身体性」である。

身体性とは何か

身体性とは「身体が持つ性質」のことであり、平たく言えば「人間らしさ」とでも表現できるであろうか。汎用性の高い言葉でありながら、明確な定義ができない言葉でもある。

我々は、日常生活という「常時」に生きている。家庭生活を送り、会社や学校に通い、友人と会い、外食をしたり家で食事をしたり、そんな日常だ。しかし、自然災害は多くの場合、突然やってくる。すると突然、それまでの「常時」から「非常時」へと環境が急激にシフトする。

「常時」から「非常時」へと環境が切り替わった時に、多くの動物は自分の脳内で環境に対応するためのスイッチが作動する。非常時モードになることで、感覚が鋭敏になりいち早く周囲の変化を感じ取り、自分の身を守ろうとする。

実はこれは、私自身が北極の冒険で常々感じている実体験でもある。単独での極地冒険を行なっていると、五感が鋭くなっていくのが分かる。特に、私は聴覚が異常に鋭くなる実感がある。物理的に察知できるはずのない、ホッキョクグマの「気配」を耳に感じたりということは実際によくあることだ。

では、私が日本にいる間にそんな鋭い感覚を覚えるかと言えば、それは皆無だ。日本という「常時」にいると閉じている五感も、北極という「非常時」に身を置くことで自然と身体と脳が反応し、スイッチが作動し五感が開いていく。

では、この五感が開くスイッチは北極に行き始めた最初から作動したかと言うと、そうでもない。長年の北極行の中で、次第に磨かれてきたものだと実感している。正確に言えば、若い頃はスイッチが作動しようとしても錆び付いてなかなかオンにならなかった。しかし、長年の北極行を重ねることで次第に錆が落ち、スイッチが作動しやすくなってきた、と言える。

身体性のスイッチ

そのスイッチは誰にでもある。しかし「常時」に生き続けてスイッチの存在すら忘れてしまった人は、歳を取るごとにその錆も固着していくのだ。

冒険を続けてきたことで、次第に錆が落ちてきた感覚、というのも私にはある。勢いに任せて北極を歩いていた若い頃、冒険中は今のように感覚が開く感じは自覚していないのだが、無意識の自分はスイッチをオンにしようと頑張っている。北極の少ない情報量の中から必要な情報を観察し、先々の変化を察知しようと頑張っているのだ。雲の流れを読み、海氷の変化を観察し、ホッキョクグマの存在に耳をそばだてる。全ては自分の身を守るためだ。錆びていながらも、スイッチはそれなりに作動して冒険が終わる。錆びたスイッチは、オンにもなりづらいが、オフにもなりづらい。半分オンの状態で日本に帰ってくると、それまでの少ない情報を読み取ろうと頑張っていた自分からは、日本の情報量の多さに吐き気がするくらいに目眩がしてしまうのだ。実際に、成田空港から自宅に帰るまでの電車内で、気持ち悪くなり何度も途中下車してホームで休みながら帰った記憶がある。車内の中吊り広告を何故かまじまじと読み、向かいの席に座っている人や車内全ての人を観察する。車窓に通り過ぎるビル広告をいちいち目で追い、いまこの電車が転倒したらどっちに身をかわそうかと考えている自分がいる。

しかし、最近では帰国した時の情報量の多さに戸惑うこともない。いま、私は自分の体を極地に置くと、スイッチが一瞬にして「バチン!」とオンになる。そして、遠征が終わった瞬間にオフになる感覚がある。

自然災害に代表されるような「非常時」において、自分の身を守り、また自分の側にいる誰かの身を守る可能性を高められるのは、この身体性のスイッチが作動するか否かにかかっていると思う。

それは、取りも直さず様々な現象を「違和感」として感じ、認識することができるかどうか、ということに繋がる。

宮城沖で巨大な地震が発生した、その直後に「これは津波の可能性が高いぞ」と感じることができるか?首都直下型地震が発生し、住宅密集地にいて火災の可能性を素早く考えることができるか?集団心理や周囲の同調意識に流されて「みんな避難してないから多分大丈夫なんだろう」なんて無根拠な判断に陥らないか?スイッチが作動すれば全て回避できるとは言わないが、助かる可能性を高めることはできる。

このスイッチは、厄介なことに「常時」においては全くの無用の長物である。五感が開くとか、怪しい勧誘の口説き文句かと誤解されるような文言だ。しかし、これが必要となるのは「非常時」であり、災害大国の日本では必要となる可能性が、残念ながら高い確率で存在している。

さらに厄介なのが、このスイッチは誰にでもありながら、錆を落とす習慣を持たない人の錆は、すぐには落ちないことにある。歩くことを放棄し、誰かに自分の体を運んでもらい続けた人の足腰が、非常時にだけ急激に発達することはないのと同様だ。

冒険がなぜ必要か?

なぜ冒険することが必要か?なぜ自然の中に身を置くことが必要か?なぜ主体的に考えることが必要か?なぜリスクを取る必要があるか?なぜ子供の頃からある程度の危険に身を晒しておくことが必要か?それらの答えは全て、スイッチの錆を落とすという「身体性の回復」にある。

何も北極まで行って冒険する必要はない。いつもよりも遠く、高く、広く、少しの挑戦を続けることで、身体にリスクという研磨剤をかけ、錆を徐々に落としていけば良い。

人間は社会性という武器で集団を組み、他の動物に比べれば虚弱な個の身体能力を補ってきた。しかし、その社会性によって「身体性」が奪われてきたと言えるのかもしれない。

「身体性」は知識で身につけることはできない。まさに「身体」で感じ、経験をするしかない。それが人間だ。


異常な聴覚でホッキョクグマの接近を察知した時のエピソードなどは、一冊目の著書「北極男」に書いてます。
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2000年よりカナダ北極圏やグリーンランドで徒歩を中心とした冒険を行ない、これまで北極と南極を10000km以上を踏破。2018年3月出版した「考える脚」で第9回梅棹忠夫・山と探検文学賞。日本人初の南極点無補給単独徒歩到達に成功。第22回植村直己冒険賞

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コメント (3)
萩田さんについては、今はなき『クレイジージャーニー』で知りました。(^_^;)

"身体性"の重要性、そして、それこそが"人間らしさ"なんだなぁ…と、個人的にも感じていました。

Facebookにて、シェアさせて頂きます。m(_ _)m
錆びない大切さを稀有な経験をもとに説いてくださり、ありがとうございます。
荻田さん最高です!!(本間)
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