人はなぜ勉強すべきか

読書が楽しい

最近、急激に読書意欲が高まっている。

今まで知らなかったことを知るのが楽しいし、感覚的にしか捉えられていなかったことが言語化されていくと頭の中での整理が進む。

果たしてそれが良いのか悪いのか、それは分からないが、とにかく自分の血肉となる読書が本当に楽しい。

私は数冊の本を併読するタイプだ。全く違う種類の本というよりも、根底で繋がりそうな本を同時に読む。

今は、青木保「文化の翻訳」、井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス」、ヨハン・ホイジンガ「ホモ・ルーデンス」、ジョゼフ・キャンベル「神話の力」、オズヴァルド・シュペングラー「西洋の没落」などを併読中。

途中で読み進めていない本や、まだ積ん読状態で渋滞中の本が多数ある。たくさん読めば良いってものじゃないが、どうしても読みたくなって買ってしまう。

この世の秩序

この世界には、自分の知らないところで秩序が働いている。

読書をする、勉強をするとは、それを知るってことだと思う。

物は高いところから落ちるし、太陽では核融合して、目の前にいる人は何事かの心の動きがある。平安時代にも恋に悩んだ人がいたり、神話の世界では太陽を盗む神がいたり、ベテルギウスがそろそろ超新星爆発しそうだったり、そして、自分の中では心身ともに常に様々な秩序が働いている。

学校で習った微分方程式やフレミングの法則は、社会に出たら使う機会は全くなかった。じゃああれは意味のない勉強だったかといえば、そんなことはない。

それはなぜ??

我々は実用に足りることを、利便性があるから学校で勉強するわけではなく、この世には自分の知らない秩序が働いており、その秩序によって社会が動き、地球が周り、宇宙が存在し、自分がここにいると知るために勉強しているのだと思う。

自分の力では、到底抗うことのできない絶対的なもの。その中に生きていること。いくら粋がって強がったところで「所詮どれだけ勉強してもこの世は知らないことで満ちている」と知ること。

その立場に身を置けば、自分の言葉が相手に届かないことや、誰かの言説に理解を示すことができなくても「何言ってるか分からないけど、きっとこの人なりの思いがあるのだろう」という気持ちが生まれるはずだ。

知性とは、知らないことや理解できないことが確かに目の前に存在していると自覚することではないだろうか。

顔の見えないネット社会では「言葉尻」だけが、自分が意図していなかったコトバがワタシとして走り出してしまう。

人の無知性がコトバを暴走させ、理解できないものを糾弾する。

世界を息苦しくさせないために、自分自身と自分の環境全てを持続可能にするために、人は勉強する。


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