「疑問をもつこと」と子育て
私は小さい頃、親の教育に対して強烈に反抗心を持っていた。
私の母は「あれをやりなさい!」「これをやりなさい!」「そうきまっているのよ!」など、会話をしていて命令口調になってしまうことが多かった。
そんなこともあって「なんでおかあさんは私の話を聞いてくれないんだろう……」と思っていた。
おまけに下の妹と5歳も歳が離れているため、彼女が生まれてからはなおのこと良い思い出がない。
押し付けの会話が増えた結果、自分で考えようとする気持ちはポキっと折れてしまった。
小さなころに「疑問を持つ」といったクセを持たずに育ってしまうとどうなるのだろう?
疑問を持たないとどうなるのか?
疑問を持たなくなると、人は思考することをやめてしまう。
私も社会人になったばかりのころは顕著にそんな傾向を持っていて、昔ある会社の先輩女性から「あのおじさんは太もも触ろうとしてくるんだよ〜、でもクビをきられたくなかったら上手くかわして飲み会には参加したほうがいいよ」というロクでもない話を聞いても、疑問を持たず話を鵜呑みにし、セクハラされたことがある。
疑問をもつチカラが全くなかったために、そういう目にあったりした。
セクハラなんてもちろん相手が悪いが「おかしな前提」に少しでも疑問を持っていれば、どこかに回避方法が見つかって嫌な思いだってしなくて済んだだろう。
それ以来「おかしいと思う前提条件」を鵜呑みにするのはやめた。
子供に「たくさんの疑問」を与えよう
そんなこんなで、最近はとくに「問い」に関する本をたくさん読んでいる。
例えばこの本。
これも紹介いただいた本なのだが、問いをもつことの重要性が非常に丁寧に書かれている。
最初は「問いが仕事に必要だなぁ〜」という想いから、仕事のために読んでいた。
しかし読めば読むほど、子供との対話にこそ「たくさんの問い」が必要じゃないかとおもう。
娘との対話も疑問で変わっていく
私も「問い」というものにフォーカスし始めてから、子供との対話の多くを本人に考えさせるようにしている。
「子供だから」と思わないで情報を正確に話すようにしている。例えば
「疲れていて片付けをしたくない」
と言われたら
「パパやママも疲れているが、あなたの出したおもちゃを片付けている。そういう状況をどう考える?」
「疲れているなら、どのような状況になれば片付けてくれるか?」
とか。
そうすると「シールだけなら片付けられそう」とか、そういう対話が生まれてくる。
「疲れているのにありがとう」という感謝の言葉が生まれることもある。
疑問をもつことで、状況が明確になるし、それによって誰かの状況を把握して感謝の言葉を伝えられたりもする。
こうやって疑問をもって、一人の人間として対話することの大切さをすご〜く感じている。
こども哲学のはなし
そんなタイミングで「Ippei Oshida」さんの「こども哲学」のnoteを拝読させていただきました。
これが、すごくおもしろい!
そして自分の子供がもう少し大きくなったら、地域の子供も読んで対話をしてみたい。
教育というものはこういう自由さがあってほしい。
自分の子供がもう少し大きくなたら必ずやってみよう。
久々のまとめnoteで情報がバラバラとしていますが、いままさに感じていることが誰かの素敵なアウトプットと重なるととても嬉しいですね。
今後も自分も、子供も、学びの場をぐんぐん広げていきたいです。
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