古代ローマの将軍について

大将について

大将は2年ある将軍職の任期の内、前半の1年のことである。

キケロによれば、大将は部隊を導く人の称号だった。L. Papiriusは大臣の後に大将になった。2名の大将は、それぞれがどの職務を遂行すべきかをくじで決定した。どちらかが軍の先頭に立った場合、もう一方は都市内で両方の任務をすべて遂行した。時には大将の統帥権が2年延長されることもあった。州の範囲がイタリアを超えて拡大されたときに新しい大将が置かれた。リウィウスによると、6名の大将は、2名は市内に留まり、残りの4名は地方へ行った。参議院は彼らの州を決定し、それらはくじによって大将たちに分配された。ディオ・カッシウス、プルタルコス、キケロによれば、参議院から追放された人物は、大将に任命されることでその地位を回復することができた。大将は帝政までさまざまな人数で存在し、裁判権を持っていた。

1人目の大将

紀元前366年に登場した内務担当の大将(praetor urbanus)は国民間の民事訴訟を主宰した。参議院(senate)は一部の高官が常にローマ市に留まるように要求した。この義務は現在、内務担当の大将に委ねられている。大臣(consul)が不在の場合、彼は高級官僚として参議院(senate)を招集し、攻撃があった場合にローマ市の防衛を担当する権限を持っていた。内務担当の大将は一度に10日以上市を離れることを許されなかった。したがって、内務担当の大将はローマ市で適切な任務を与えられた。例えば内務担当の大将はLudi Apollinaresを主催した。

2人目の大将

第1次ポエニ戦争直後の241年に、2人目の大将である外務担当の大将(praetor peregrinus)が登場する。この大将は市民と非市民の間の紛争を担った。ハンニバル戦争中、外務担当の大将は特別任務でローマ市外で仕事していることが多かった。内務担当の大将は司法制度を管理するためにローマ市内に留まることが多かった。

追加された大将

ローマの拡張には大将の追加が必要だった。

紀元前227年 シチリア担当の大将とサルデーニャ担当の大将(4名)
紀元前197年 ヒスパニア・ウルテリオル担当の大将とヒスパニア・キテリオル担当の大将(6名)
紀元前146年 マケドニアおよびアカイア担当の大将とアフリカ担当の大将(8名)
紀元前134年 アジア担当の大将(9名)
紀元前118年 ガリア・ナルボネンシス担当の大将(10名)
紀元前102年 キリキア担当の大将(11名)
紀元前81年 ガリア・キサルピナ担当の大将(12名)
紀元前74年 ビテュニア担当の大将とキュレネ担当の大将(14名)
紀元前67年 クレタ担当の大将(15名)
紀元前64年 シリア担当の大将(16名)

中将と少将について

1つの軍団を持つ属州では、中将(propraetor)が元帥(imperator)の代わりに属州を支配するだけでなく、自ら軍団を統制することもあった。しかし、2つ以上の軍団を持つ州では、各軍団は少将(legate)によって指揮され、総督は属州を支配するだけでなくそこに駐留する全ての部隊をまとめていた。

中将について

中将は2年ある将軍職の任期の内、後半の1年のことである。中将は紀元前241年に初めて現れた。

中将は委任された統帥権であるという考え方は決して廃れることはなかった。例えば、それまで一度も官職に就いていなかった人物、あるいは地位が低い官職にしか就いていなかった人物に統帥権を付与する場合、一般的には中将という称号が与えられる。例えばアントニウスはまだ陸佐だったが、ユリウス・カエサルはイタリアの部隊を導くためにアントニウスに中将の称号を与えた。参議院はアントニウスに対抗するためにオクタウィウスに中将の称号を与えられた。

しかし、常設の官職としての中将は、地方政府が必要だから生まれた。ローマの属州の数が、大将が任命された元の4つの属州を超えて増加すると、2つの都市の大将の命令権が延長するのが当たり前になった。その後、地方政府は大将の行政から切り離され、地方の支配は大臣と大将の間で分割され、そのうち大将は平和な地方を支配した。将軍の任期は原則2年で、1年は首都で大将として過ごし、もう1年は地方で中将として過ごした。この指揮権の分離はスッラによって初めて正式に認められ、州知事の任期は1年に固定された。帝政で全ての州が参議院の州と元帥の州に分けられたとき、共和政と逆になった。危険な州の総督に中将の称号が与えられ、安全な州の総督に副大臣の称号が与えられた。

少将について

少将は、ローマ軍の高級幹部の一種で、師団長である。もともとこの用語は、海外で外交官として活動するローマの使節を指した。少将の任期は2年である。大臣や大将の副官は少将と呼ばれ、ローマ地方の総督と同様に、1名または3名の少将を補佐として抱えていた。

共和政後期には、参議院議員が単に自分の仕事を目的として、地方議員のお金を負担して地方を旅したり留まったりする許しを参議院から得ていた。参議院議員がこの特権を利用できる期間には制限がなく、地方議員にとっては大きな負担となっていた。地方に滞在するこの方法は、Legatio liberaと呼ばれていた。なぜなら、これを利用した者は、いかなる義務も果たさずに少将または大使のあらゆる特権を受けたからである。Legatio liberaの特権はキケロの時代にしばしば悪用された。したがって、キケロが大臣の任期中にこの制度を終わらせようと努めたが、陸佐の反対により、その期間を1年にしただけだった。その後、ユリウス・カエサルは参議院議員がLegatio liberaを利用できる期間を5年に定めた。

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