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【目印を見つけるノート】478. ノートの取りかたについて

今日も日記から外れてみます。

『東洋経済オンライン』でノートの取り方についての記事を見つけたので、ちょっとお邪魔していました。

https://toyokeizai.net/articles/-/278841?display=b

かく言う自分の例なのですが、私は高校時代までノートをほぼ取っていませんでした。小学校はどうだったかよく覚えていないのですが、中学の半分は間違いなく取っていなかったです。
勉強していなかったのかな。うーん、眠くなければ授業を聞いて、教科書や資料集を熟読したのと、教科書に書き込みはよくしていました。教科書に書き込むのは落書きもありましたが、ノート代わりになったのかもしれませんね。丁寧に書く間に、聞くことも頭に入れることも万事漏れていってしまうように思ったかもしれません。
実はたいへんなコンプレックスでした。
「周りの人は丁寧なノートを作っているのに、私はダメだなあ」
きれいにノートを取るのはある種の美徳でしたからね。

このコンプレックスは仕事で取材をするようになってからも延々続きました。

メモがいつも図のようになってしまう。とにかく矢印や丸囲みばかりで単語と語尾のオンパレードです。文章になっていません。他の方に「見せて」と言われて渡したら、「大雑把だねえ」と言われて返されました。うう……。確かに他の人が見てわかる代物ではありません。いや、自分で見ても分からないのでは。
私の場合、話していることをメモだけで一言一句違わず文字にするためには速記を覚えなければならないでしょう。
書くことに気を取られては、要点を落としてしまいます。
要点とは「その方が言いたいこと」ということです。それをつかんで、自分はどのように記事を書いたらいいのか考えます。インタビューならばたいてい録音していますので、一言一句はそれほど重要ではありません。キーワードがあれば全体の組み立てができる。そのぐらいでも何とか書けたりもします。

一度、目の覚めるような経験をしました。
とあるミュージシャンの方がーーカメラがご趣味だったのですがーー審査をパスしてカメラ会社のギャラリーで写真展をすることになったのです。審査員はプロの写真家でハードルの高いものだったと思います。

見に行って、ちょうどご本人がいらっしゃって、少しお話しました。10分ぐらいかな。音楽の話は皆無。どうして応募しようと思ったのかから始まって、何を撮るのが好きかとか、カメラはこれがいいとか、本当に写真の話だけ。私もNikonのFE2で悪戦苦闘していましたので、カメラの話が面白かったですね。F16や22まで絞りたいけれど、女性には嫌がられるとかね、それはそうでしょう。私も嫌(笑)。
彫りの深いエッチングのような写真でした。
その印象が強烈でしたね。
ライブを見てコワイ人なのかなと思っていましたが、話してみてそういうことではないようだと思いました。

その話があまりにもイイ感じでしたので、インタビュー的に起こしてみました。メモもテープもとっていない。でも、ものすごくリアルに再現できました。自分オンリーの同人誌(一人誌か)にしか出していませんけど。

メモを取らなくても印象が強ければ、何かをつかめれば再現できるんだ。
これは大きかったです。

上の2つの記事にはいろいろ書いてありますが、ノートを取ることでそこで完結して、考えたり発展させたり連携する余地がなくなってしまう場合があること。ノートを取るのが目的ではなくて、自分の頭で再現することが目的だということ。この2点については、大いに同意しました。

きちんとノートを取るのがよくないというのではなくて、そこが頭と刺激的にリンクするようにした方がいいということです。

翻って、私は小説を書くときにプロットを起こさないという話をこれまで何度か書きましたが、これもプロットがよくないということではありません。アニメやゲームを作るときはプロットなりコンテなり設計がたいへん重要だということも想像できます。
私の場合は、もともとノートを取らないし、メモも大雑把なものですから、頭の中で組んでいくようにしているというだけなのです。上手い下手は別として。

アルベール・カミュさんがかつて、『ペスト』を書く際に残していたメモを見たことがあります(高校生のときなのでうろ覚え)。それはプロットではなくて、リウーやタルー(登場人物)の役割、彼らが何を考えるかなど抽象的な内容が多かったように記憶しています。

そして、上と矛盾するようですが、
今のような時期のことはきちんと記録しておくべきだと思っています。私個人で最初に参考にしたのは、イタリアのスキラーチェ校長先生、マルクス・ガブリエルさん、カルロ・ロヴェッリさんでした。そこからポツポツと日記を書きつつ、今というものをどう表現していくか考え続けています。それは自分を表現する目的ではなく、抽象的、普遍的なものであるべきだとも考えています。

あれ、何か大風呂敷になったぞ。
ノートの話でした。
さて、また書くかあ。
きょうは文章ばかりなので、
余裕があったらまたnote出しますね。

それでは、お読みくださってありがとうございます。

尾方佐羽



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