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【目印を見つけるノート】505. わたしはオーディエンス

朝から何でしたか、SNSを見ていたら、Paul MacCartneyさんがご自身の写真をあげていらっしゃって、『Paul by Linda』というコメントがありました。
朝からそのコメントにやられてしまいました。とりたててすごいコメントではないのですが、これまでもあったのですが、打たれました。

以前は憧れの、好きなアーティストの日々のコメントがほぼリアルタイムで見られることなどなかったです。コメントだけではない。場合によってはライブとか動画まで見られる。
以前は海外のアーティストならば、インタビュー記事を月遅れで読むか、来日公演に行くか、PVか、数少ない音楽番組でインタビューを視聴するか、そのような程度でした。日本のアーティストも大して差はなくて、海外の人よりライブの回数が多いとか、日本語だとか少し近いぐらいのメリットはありましたけれど、ヴェールの向こう側なのは同じでした。近況やプライベートを垣間見るなんて、夢のような世界でした。
それが今は普通になりました。
場合によってはコメントまでさせてもらえる。何てすごいことでしょう。

そのような幸せをかみしめている現在ですが、ここ数日はアーティストの方のコメント(ステートメント)を見ていて、考えさせられることが続きました。noteでは何名かのアーティストの方をフォローさせていただいていますが、特に最近、アジカンの後藤正文さんのnoteには胸の詰まる思いがしました。そこからnoteの外に出て、アーティストの方の記事、コメントをいくつか拝見しました。最終的にはNeil Youngさんのコメントも見ました。
どのかたもとても真剣でした。
確かなものがない中で、ありとあらゆる方向を見ながら、自分がどうするかを悩みながら決めている。それが正解かはわからない。それでも進もうとしている。

私は「こうしたらああしたら」ということは言えません。一緒にうーん、と考え込むしかできません。

その中でひとつ思ったのは、「見る側にきちんと考えた上での行動が必要だな」ということです。当たり前だ、と言われそうですね。当たり前なのかもしれませんが、現実的にはそれしかないのだろうと思います。

自助だけが必要かといえば、決してそうではないのですが。

毎日通勤で3つの電車に乗っている話をきのう書きましたが、いろいろな人がいます。マスクをしていない人もいますし、大きな声で話し続ける人もいます。どれだけ注意喚起がされていてもそうなのです。それで感染が広がったとしても、責任を取る人はいません。電車を例にあげましたが、そのようなことは日常そこらかしこに見られます。
海外ではないですが、行動するに際しての罰則や禁止も必要かなと思ってしまうことは正直あります。
そのようなこと、個人的には嫌ですけれど。

悲しいことですが、普通の状態ならば咎められるようなことのない行為も、今はいちいち気にしなければなりません。「自分はかかっていないから」というのは確かではないし、免罪符ではないのです。

今はフェスの開催の是非が話題になっていますが、その理由は「観客」です。制限や取り決めが多いのも観客を前提にしてのものです。しばしば、開催者やアーティストが非難の矢面に立たされますが、それは経済的なことからだけではなく、「匿名多数」の観客の皆さんのために立ってくれているのだともいえます。

それを生かすのも潰すのも一人一人の行動にかかっているのだと思うのです。

今後もライブを見に行くつもりでいる人間の一人としてもよく心に刻んでおきたいです。

⚫きょうの1曲

きのう、Led Zeppelinの『Immigrant Song』を引用しましたが、どうしてもボンゾのドラムが見たくて検索しました。あった!

Led Zeppelin『Immigrant Song』Live

ギターソロもありましたね。やっぱり、ドラムがすごい。
私の父が昔、ジョージ川口さん(ドラマー)を見て、「雷みたいで圧倒された」と言っていましたが、私はやはりジョン・ボーナムさん(ボンゾ)にとっぱじめで圧倒されました。

このようなライブ映像も以前は見られなかったのです(しみじみ)。

それでは、お読みくださってありがとうございます。

尾方佐羽


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