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世界のダンスミュージックの歴史について切り込むRave On:ベルリン前編 (要約)

本日のテーマは「ベルリン 前編」です。

ベルリンの歴史とダンスミュージックについて最近話題になることが多いので取り上げます。

まずは、悲しい話題から。

Kraftwerk 創設者フローリアン・シュナイダーの死を聞いたのは5月7日(木)。私にとってはリアルタイムで聴いていたアーティストではなかったのだが、今読んでいる本「Rave on」に出てくる多くのアーティストが影響を受けたと記載されており、改めて聴きなおし、調べ直したが、70年代からこのクラウトロックサウンドやコンセプトを表現していたのだから時代には早すぎたアーティストといっても過言ではない。ブライアン・イーノ曰く彼らは"Nostalgic for the future" と評している。後に日本でもYMO、HIPHOP界ではZulu Nation のAfrika Bambaataaがtrans-europe-expressのバースをサンプリングしてPlanet Rockをリリースしたりしていてとにかくジャンルレス・ボーダーレスに影響を与えている。ボコーダーをいち早く取り入れたのも彼らなのでもはや凄すぎる。。。Kraftwerkについて語るとそれだけで終わってしまうと思うので更に掘り下げたい方はele-king野田氏の記事をどうぞ。

さて、ここ最近読んでいる本があります。Kindleで購入してMATTHEW COLLINのRAVE ON(パーティーをし続けよ)という本です。この本は世界のダンスミュージックの歴史と今を掘り下げていく内容となっていて非常に勉強になります。(歴史を知り、振り返ることで現代のヒントになれば?と思い、読んでいました)

中でも私はベルリンのパートに一番関心を持っていて車産業が発達していること、歴史、勤勉さなど日本と似ている要素を持ちながらことカルチャー(音楽やアート)はドイツはより日本より自由度をもっているのか?という自分自身の感覚への疑問に対する回答が多く記載されている。KraftWerkもこの本の中に何度も登場してきて彼らがダンスミュージックシーンへ大きく影響を与えたことを感じた。彼らが残した世界について触れていきたい。

PRS for Music Matthew Collinより引用

そもそもドイツってどこ?ベルリンが首都で、首相がメルケルで、車産業がジャーマンスリー(ベンツ・BMW・アウディ)があるから盛んで、ブンデスリーガで香川・内田・岡崎とかがかつて活躍してて、ソーセージとビールがおいしくて、ジャーマンテクノってジャンルを確立してて~ぐらいはわかるけど(結構知ってたかも)案外ドイツ自体について考えたことはなかった。

人口:8,200万人/首都:ベルリン/日本からの時差7時間(日本が先)/飛行機の所要時間:14時間

世界の国旗 アサヒネット 引用

はて、話を戻しますが、RAVEONベルリン編のポイントを簡潔に伝えると6点

このドイツ・ベルリンの話だけでもこれだけある・・・Collin氏恐るべし & この国・都市たった40年の間(時系列を載せておきます)にこれだけのことが起こっているの凄いな。それでは、一つずつ簡単ではあるが、触れていきたい。(著作権の兼ね合いで全資料を使えないのでほしい方は言ってください)ちなみに本題に行く前にここでは第二次世界大戦後のドイツ・ベルリンについてはこちらを参照ください。

ドイツの中でも戦後は5個国に分かれてaイギリスbフランスcアメリカdソ連eポーランドと区切られているのにベルリンの中でもまた4つに分かれているので完全な民主化が続く1990年(?)まで凄く歪な形での統治が行われる。資本主義の西ドイツ(米・英・仏)と社会主義の(ソ連)東ドイツとなり、又、その東ドイツの中にあったベルリンはさらに分割され、西ドイツが管理するエリアがあるという不思議な感じ・・・・貧富の差も激しいだろうし、さぞかし国民はストレスや不満があったでしょう。

世界史の窓 参照 https://www.y-history.net/appendix/wh1601-029.html

ヨーロッパのカルチャー発信地として捉えられている今では考えられませんが、70s 80sのヨーロッパの中ではベルリンは世界の中で最も気味の悪い都市の中の一つとして捉えられていました。(信じられない・・・しかし歴史的に考えるとそりゃしょうがない、日本ももしアメリカ以外にも介入国がいてたら凄くカオスになっていたはず)

しかし、西ベルリンに住むと兵役を避けられることと家賃が安かったことからから比較的自由な発想を持つ西ドイツの若者たちが集まるようになる。無政府主義者、パンク、アーティスト、同性愛者、無断移住者、Iggy PopやDavid Bowieなどのミュージシャン、そしてDimitri Hegemennnのような小さな町からの難民など。Hegemennが当日のベルリンについてコメントをしているので載せておきます。

参照 Resident Advisor https://jp.residentadvisor.net/podcast-episode.aspx?exchange=206

すみません、ようやく本題に入ります。前触れが長くなりました。

1.ベルリンカルチャーの土台:Geniale Dilentanten (1979-1984)

1979-1984年のドイツアート激変時代の象徴として語られているGeniale Dillentanten(天才的ディレタント、敢えて綴りを間違えて記載)は1981年ベルリンテポドラムにて行われたフェスが行われた。ドイツ都市部に属する芸術学校の周辺に現れた強いサブカルチャーであり、支配的なツアイトガイスト(時代精神)に反抗する姿勢を持っており、技術の完成度よりも表現、スキルよりもアーティストによるインパクトを重視する傾向にあった。同時期の社会にて行われたプロテストや挑発行為がこのムーブメントを国際的なものへと発展させていった。

このムーブメントの中のパーティーでWestbamやDr. Motteなど後にテクノシーンに多大なる功績をはたすDJ陣も登場している。当時Acid House DJだったMotteは後に1988年に初のAcid House Partyを開催してその年末にHegemennと一緒にAcid Houseを軸に展開したUFoでレジデントDJを務めている。

2.ベルリンの壁崩壊時テクノが果たした役割:若者にとって東西統一の象徴

1989年11月ベルリンの壁崩壊後、もちろん状況はカオスであり、人々は歓喜に浸っていたのだが、その中でテクノの登場は東西の若者にとって再度一つになる為(Reunification)に大きな役割を果たした。ちなみに当日テクノ・アシッドハウス界隈で人気があったTanithは下記のように述べている。

Tanith wikipedia 参照

ベルリンの壁崩壊後、若者が抑制された状態から解き放たれて騒いでいるんだけど警察が権力がなくなりどのように対処していいかわからなくなった世の中を想像してみてくれ。どのレイブにいっても人でいっぱいだった 。まさにTechnoはリベラルダンスだったんだ、とWestbamも述べる。

東ドイツのあらゆるところで政府が管理していた会社や工場が空き地や廃墟となり、そこで違法パーティーが起こり、レイブが行われる。警察が機能していないから数年は無法地帯であった。その無法地帯が作り上げた文化の発展した先にクラブが出来上がってくる。そこで出来た一つのクラブがTresor: Acid House Club UfOを閉店して次のロケーションを探していたDimitri Hegemennがオーダーである。

~NOTE~

クラブの歴史に行く前に、このベルリンの状況は現代の感染症という点では違うが、 時代が大きく変化するという意味合いでは少し関連づけることが出来る。 もしこのまま経済が立ち行かなくなった場合に多くの会社は倒産、施設は廃墟と化し、 クラブで遊べなくなったクラバーは違法パーティーやレイブが行われる可能性がある。 現に少し前のイギリスではクラブが減少し、そのような現象が行われはじめているという記事も出ている。やっと日本では風営法が解放されてクラブの市民権を勝ち取り始めたのにまた3密の悪の代表格として捉えられて、営業できなくなる可能性もあり、風営法の代わりに、感染症対策法案(?)みたいなものが出来てまた営業が取り締まられたらたまったもんじゃない。 一方でこういう逆風の時こそ新しい音楽やムーブメント、カルチャーが出来るということもあるが、、、、、

3. クラブの歴史:Tresor ・Berghain

ここでは私はこのベルリン、いや世界が誇る2大クラブについてあまり多くを説明する気はない(といっても結構書いてしまった)。なぜなら数多くの記事や映像で紹介されているから。それだけこのクラブは世界中のダンスミュージックファンの憧れの聖地であり、多大な影響を与えてきた。Tresorについて知りたい方は少し長いですが、こちらの記事(中に映像あり)をどうぞ。

UFoをクローズさせたHegemennは新しいVenueの場所を探し始めます。Hegemennは友人ら(Johnnyという東ドイツ出身の人とか)と一緒に爆撃の後で荒れ果てた様々な空き地や廃墟を探し回り、一つの場所に巡り合います。 西ベルリンと東ベルリンの間のPotsdamer Platzの近くにある場所(元デパート貯蔵室)を見つけます。Potsdamer Platzはワイマール時代のナイトライフの中心地となっており、ナチスが管理するビルが多くあった場所でした。Hegemennは最初にこの場所を見つけた時「まるで古代ピラミッドの埋葬室に紛れ込んだかのようだ。」とコメントしている。確かに映像で見るだけでも恐ろしいのに、きれいにする前の廃墟の状態だと・・・・

続けて彼は「初めて(Tresorを)みた時、ここには何か特別なものがあると感じた。テクノやエレクロニックミュージックがはまるかどうかは定かではなかったが、ベルリンの壁のすぐ近くで東西の若者がこれる最適な場所だったんだ」と。

そしてその後は皆さんご存知の通り、新たな時代と音楽のはじまりの幕開けです。

Tresorはレーベル業も行っており、Final CutをやめてUnderground ResistanceをMike Banksと一緒に立ち上げたJeff Millsを招聘している。Final CutはHegemennが自身が主催していたフェスティバルAtonalで呼んでいたが、このやりとりをきっかけにベルリン・デトロイトのカルチャー的強固な関係構築のはじまりだったといえる。(後ほどこのことについて触れます)

2000年代を迎えると、ベルリンは観光都市として世界中から人を呼び名を馳せる。

2004年 年間宿泊者 1,300万人 → 2013年 〃 2,700万人(+107%)

音楽やナイトライフはこの成功の火付け役の一つでベルリンのイメージを一新させた。ヨーロッパ中の人々が安い飛行機で週末にナイトライフやレイブを楽しむ人がベルリンに押し寄せてきたのである。(通称EasyJet raversと呼ばれていた)週末にとにかくナイトアウトしてそのまま飛行機に乗り、自国へ帰る。そういう人たちが多くいて、カルチャーのこと、ベルリンのことなんぞお構いなしに騒いで終わりという人が大半。しかしその中にはベルリンのカルチャーに感銘を受けてそのまま移住したアーティストたちもいた。今ではみな有名なアーティストとなっているRichie Hawtin, Ricardo Villalobos, Daniel Wang, Alan Oldhamなどなど。

ここで、独り言・・・Richieあなたその前はカナダに住んでデトロイトシーンにどっぷりハマってたかと思ったらベルリンにいるのかい、凄い感度の高さ。

実際にリッチーは「この世界の中でこれほどインスピレーションを受ける都市は存在しない、ニューヨークでもロンドンでもパリでもない、ベルリンがあらゆる意味で活気のある都市だ」と。

時は少し過ぎ・・・・・

Berghainは2004年にオープンした。元はと言うと2人のオーナー Michael TuefeleとNorbert Thormannは90年代はBunkerでGay Club 「Snax」 というsex partyのオーガナイザーとしてキャリアをはじめた。その後彼らは東ドイツのスプリー川の近くでFriedrichshein地区にある古い鉄道のデポでOstgutをはじめる。

当時の状況を少し話すと、Love Paradeは商業的になっており、テクノは文化として定着、E-WerkやBunkerは閉店、そしてTresorはもはや名物となっている時代であった。「90年代終盤、テクノは既に(流行り過ぎて)時代遅れとなっていた、だけどOstgutだけは皆いろんな遊びをして午後までパーティーが続いて素晴らしい時間を過ごしていた。有名になりすぎると店のスピリットを失ってしまうから内緒にしたかったんだ、インターネットの出現ではそれは無理になったけど」とダンスミュージック雑誌GrooveのエディターSchneidersは言う(彼はOstgut/Berghainの立ち上げに大きく関わっていると)。当時よくゲストとして招聘されていたのは2000年代初頭にアメリカからベルリンに移住していたDaniel Wangであった。Wangは「Ostgutは独自の世界にいるようだった、住所もないし、エントランスが見えるまで明かりもなかったんだよ」と思い出しながら話す。

OstgutはビッグネームよりもローカルDJたちもフックアップし、そこでキャリアを築いたのがAndré Galluzzi とMarcel Dettmannである。(Dettmannはこの頃から関わっているんですね!)

Ostgutは2003年に新しくスポーツのスタジアム建設(O2 World Arena)の影響で閉店する。そして2年後二人のオーナーは元Ostgutの近くの場所にある発電所に出会う。それがBerghainだ。

(少し力尽き始めたのでBerghainについての説明は上のDJ Mag紹介を読んでもらい、割愛させてください・・)

参照 sonar hongkong The Black Madonna

こうThe Black MadonnaもBerghainについて評している。もう少し彼女の言葉を借りて説明するとBerghainは壮大で冷たく機械的なテクノマシーン。上の階(3階)に行くとPanorama Barがあり、そこは暖かく、明るくみんなで一緒に祝福する雰囲気がある(ハウスフロアー)。そしてThe Labはとても汗臭くハイパーセクシャルスペース。私にとってこの三つの世界がダンスミュージックを構成するものであり、この三つが同時に起こっていて人々が交差することがこの場所をとてもユニークで特別なものにするとのこと。

度々登場するDainel Wangはもう少しインテリジェンスを持ってBerghainを表現する。「高尚で繊細な美でもなく、皮肉めいた冗談でもなく、センチメンタルのノスタルジアでもない。この瞬間の人間の肉体美-スタミナ、至福の喜びと永遠に続くモーションである」 (Daniel Wang-Berghainについて 2004)

The Berghain Backstory: Building Berlin’s Most Legendary Nightclub 参照

ちなみにBerghain名物の一つであるのが入場時にある。ご存知、基本列に並びドアマン次第で入れるか入れないか決まる、謎の選定だ。友人も全身黒を着て観光客っぽさをなくしていったが入れなかったと言っていて「本当にパーティーをしに来たか」ということが問われているのかもしれない。Red Bullが面白い切り口で取り上げているので記事をどうぞ。

Berghainでもう一つ触れないといけないのがレジデントDJsのMarcel DettmannとBen Klockである。両者とも90年代から活躍するベルリンのベテランDJで硬くアグレッシブなマラソンセットで有名となった。彼らのセットは時に10時間以上も続くこともあり、月曜日の朝まで行われる時もあった。彼らのサウンドこそが、Berghain Soundの代名詞となったと言われている。

ちなみに今では世界の有数のDJとなったDJ NOBUもYuko Asanuma氏のブッキングによりBerghainで称賛され、その後あれよあれよと世界で呼ばれてDekmantelではUFO stage のメインアクトまで駆け上がった。つくづく影響力のあるクラブであると思う。

前編はここで終わりです。長い記事最後まで読んで頂き、ありがとうございました。ベルリン・・・・歴史が濃い(途中選定を間違えたと悔やんだ)。しかしそれだけ魅力的であらゆることが起こっている都市。後半戦はDetroit-BerlinのつながりやLove Paradeについて触れます。

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