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不適切発言が人と人の関係の質を高める組織開発

瞑想では、「呼吸を感じなさい。そして、指先、つま先へと、全身を感じなさい」と諭していきます。このとき導者は、相手(瞑想体験をしている人)が五体満足であることを前提にしています。しかし、そのことを指摘し、“炎上”させる人はいないでしょう。

多くの者に語りかけるとは、“一般論”を語ることと理解される場合が多いのではないでしょうか。そのように理解すれば、一般論はマジョリティに準じるものであって、“すべて”は対象にしていないという方便が想起されます。すなわち、それを否定するなら、全てが曖昧になっていくという主張です。だから、一般論を受け止めるときは、その前提を受け入れる必要があると説明されます。『不適切にもほどがある』では、寛容がコミュニケーション・ギャップを解消するキーワードとしてあげられました。性善説に立てば“炎上”は避けられるということでしょう。

このような考えは、「マイノリティは我慢しろ」と言っているようにも聞こえます。そこで、我慢することなく、しかし攻撃的な自己主張でもない”フィードバック”が求められるのでしょう。フィードバックとは、感情に流されず、事実としての自分の立場を表明することです。そうすれば、その状況に即した有効な話し方がなされていくでしょう。

コミュニケーションでは、部分ではなく全体を捉えることが必要だと考えます。すなわち、寛容を前提とするだけではなく、フィードバックの機会を与え、それを受け入れるというキャッチボール全体がコミュニケーションだと考えます。したがってコミュニケーション・ギャップとは、投げるだけ、あるいは受け取るだけといった瞬間だけを切り取って関係性を評価する姿勢から生まれるものではないかと考えます。ハラスメント認証においても、特定の言葉を言ったかどうかが争点となるような対応では、良好な関係性を構築することはできません。今まで”負けて”いた者が”逆転勝ち”をするに過ぎず、それはただ、分断に拍車をかけるだけのことのように思われます。

話し手が多数に語り掛けると言っても、語り掛ける対象は決して不特定多数ではありません。“我々”と呼べる共通認識を持っている人に限られます。例えば人権が守られる存在は、かつて、性・人種・宗教観などによって制限されていました。現代においても、生物学的な人間(ホモ)であることによって守られる権利として人権が存在するとの理解は、必ずしも実現されていません。常に、「私にとっての”我々”」という範囲が存在していると言えるのではないでしょうか。ビジネスにおいても、部門の垣根があったり、縦割り行政が行われたり、世代間でレッテルを貼り合ったりするなど、“我々”と呼べる共通認識を持てる人を限ろうとするコミュニケーション(思考)があるように思われます。

大かれ少なかれ、“一般論”の全てが自分に当てはまることはありません。より深くかかわりたい場合は、どのような人であっても個別に対応していくことが必要です。だから、その入口で規制をかけることは、単に世界を狭く、わかりにくくするだけのように思われます。むしろ、寛容とフィードバックというキャッチボールを成立させるコミュニケーションが、身近に、そして組織に育まれていくことが求められているのではないでしょうか。

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