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“憧れる”から生まれる「知識と経験」を活かす組織開発

長嶋茂雄氏が現役を引退したのは、38歳でした。しかしダルビッシュ有選手は、42歳までプレーすることを前提にパドレスと契約しています。生命科学の進歩によるものではありますが、それでもそれを実現することは、前人未到の山中に分け入るもののようなものでしょう。

前人未到の山中に分け入るとき、「この岩は迂回できそうだ」という判断は、経験からくるでしょう。また、「この崖は頑丈そうだ」という判断は、知識からくるものだと思います。つまり、経験と知識の積み重ねが、将来を切り拓く術になるのだと思います。

経験とは、単に何かを行ったという事実(体験)だけを指すのではなく、その体験を振り返ることによって獲得できるものでしょう。だからそれは、反省と呼ばれることが多いのではないでしょうか。すなわち、反省によって明らかになった新たな問題に立ち向かうことが、経験を活かすということになるのでしょう。反省が新たな問題を明らかにするとは、換言すればさらなる高みが顕在化することであり、それは同時に「もっと、もっと」という活力を生んでいくと言われます。これは、柳井正氏が『一勝九敗』と表現したもの、あるいは松下幸之助氏が“やりがい”や“充実感”の源として礼賛したものであるように思われます。

一方、知識とは、経験のプロセスで成される個々の試行錯誤で得られたものとなるでしょう。すなわち、試行錯誤の体系化によって、いわゆる「成功の方程式」として導き出されたもので、ビジネスでは成功体験として語られるものだと思います。しかし、その方程式も、鏡のように成功を正確に映し出す何かになることはありません。ダルビッシュ選手の(その時の)成功は、ダルビッシュ選手(その時)だから成功できたのであって、それを完全に真似をしたところで、別の人(別の問題)でも成功できるわけではないというものに過ぎません。だからダルビッシュ選手の元にいる20歳代の若いチームメイトは、ダルビッシュ選手をリスペクトしつつも、「参考にする」と言っている(真似をするとは言わない)のでしょう。

体験価値は、それを体験した本人にしかわからないものです。しかし、それを聴くことによって、何かわかったような気がすることも多いでしょう。例えば、「ようするに」という言葉を聞いた瞬間、そこまで理解しようとしてきた思考が止まり、その後に続く言葉だけが独り歩きすることは、よくあることではないでしょうか。会議における議論の帰結がこのようになり、実際の行動に移った途端に微妙なズレを生じさせ、再び会議が開かれるといった経験はないでしょうか。だから、「恐竜時代に隕石が降ってきたようなものだ」という比喩だけに止めた方が、却って真意が浸透するのだと言う人もいます。

使っているはずが、いつの間にか使われている。言葉には、そんな力があります。しかし抽象性だけに頼っては、大きな誤解を生んだり、限られた人しか行動に移せなかったりする可能性も否定できません。だから、「それは◯◯ですか?」と具象性を求めることになります。すると、その答えに対して、何か不十分であるようなモヤモヤ感が生じます。「本当に〇〇で良いのですね」などと念押しする姿からも、それは伺えます。そこで、さらに具象性を増やすことになっても、そのモヤモヤ感が解消されることはないのではないでしょうか。そこで、解決されないことを理解したうえで、「今のところの考え」として先に進むことが大切になるのだと思います。だから、実際の行動に移った途端に微妙なズレを生じさせ、再び会議が開かれても、それは思考を継続し、深化させることであり、単純に停滞と捉えるべきではないことのように思われます。

思考し続けるためには、強い心を持つ必要があるかもしれません。だからといって、思考を放棄した安易な道に進めば、責任を回避するだけの行動に移り、やがては自らが考えないことを善とする洗脳に向かっていくことさえあるでしょう。それでも、思考し続けることで、自己肯定感の喪失や充足感の欠落に陥ることに対する恐怖を取り除くことはできません。だから、自身の小さな成功体験を認め続け、思考を継続していくことが必要だと思うのです。

「今のところの考え」を明らかにすることは、思考の区切りでもあり、始まりでもあります。そして、この積み重ねが、進歩、成長、発展、革新などと呼ばれるものの正体なのかもしれません。だから、ダルビッシュ選手のように前人未到の山中に分け入るといった気構えがなくても、日々の中で思考し続け、日々、「今のところの考え」を出し続けていけば、振り返ったとき「こんな山に登れたんだなぁ」という感慨を得ることができるのだと思います。

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