“読書”の在り方から考える組織開発
1カ月の間、1冊の本も読まない社会人は、過半を超えるそうです。これは、働き方に問題があるとの指摘が注目を集めていますが、皆さんは、どのように捉えるでしょうか。
「活字離れ」と「読書離れ」の幻想
活字離れ、読書離れということは、随分と昔から言われています。例えば、全共闘が華やかりしころ(1970年前後)も、「学生が読むのは、マンガか、せいぜい岩波新書」と言って、時の“大人”たちは嘆いていました。ただ、それでも、雑誌などを含めた書籍全般は、広くニーズがあったのは確かです。
その事態が一変したのは、いわゆる“紙離れ”が起こった2010年ごろでしょう。しかし、これも媒体が紙からデジタルに変わっただけで、読書としての総量は、おそらくあまり変わっていないと思われます。
にもかかわらず、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆・著)がヒットしたのは、読んだ活字の総量ではなく、読んだ本の冊数に視点を持ってきた点にあるように思われます。
つまり、細切れとなった大量な“活字(情報)”は手に入れているが、1つのテーマに対する体系的な情報を手に入れようとしない(“ノイズ”という余白を失っている)という現状を明らかにしたということです。
ここから著者は、原因をタイパ志向に求めました。そして、子どもは以前より本を読んでいるのに、社会人が読まなくなったというデータを根拠に、働き方への問題提起に結びつけています。
そして、仕事と余暇をきちんと振り分けることが、問題の解決になると提言しています。
今も昔も、若者はタイパ志向
現代社会では、直接間接、様々な知識が必要であるかのような錯覚に陥いります。とくに時代の変化とともに、接する情報が多くなったために、若年者ほど、その傾向を強めるでしょう。
社会人に限っても、20歳代というのは、「あれも知らなきゃ、これも学んでおいたほうが良い」などと、あらゆる方向が気になるものです。そこで、かつての出版業界は、平易かつ簡単に知識が吸収できる、いわゆる“新書”を発行して、そのニーズに応えました。
しかし、インターネットが普及した現在にあっては、同様のニーズをSNS等で満たすことができます。
そこでTVは、かつては(今でも放送されていますが)、「ピラミッドの謎」など、2時間かけて1つのテーマを掘り下げる番組が主流でしたが、今は『100分で名著』や『カズレーザーと学ぶ』など、平易かつ簡単に知識を吸収できる番組が、数多放送されています。
一方でラジオは、YouTubeの流れを受けてか、1つのテーマを掘り下げた番組を放送することで、却って聴取者を取り戻しています。
ただ、書籍にあっては、単に、このような時代の流れに対抗できる商品を、開発できていないだけのように思えます。
すなわち、最近の社会人は、本(主としてビジネス書)を読まなくなったのではなく、これも単なる媒体の変化に過ぎないように思われます。
思考と“ノイズ”
1つのことを説明するためには、全体を論理的に構築する必要があります。そのためには、様々な傍証を行うことになります。先の著者は、これを“ノイズ”と表現しました。そして“ノイズ”を忌避することに、ある種の危機感を抱いているように見受けられます。
しかし、単に知識を必要とするのであれば、確かに”ノイズ“は少ないほうが便利です。敢えてタイパなどと言わなくても、昔から、それは志向されていたことでしょう。例えば、速読の流行なども、その1つでしょう。
それでは、その危機感はどこにあるのか? おそらく、知識を元に自らが思考するプロセスが、この“ノイズ”にまみれたものであることと関係があるように思われます。
自分の考えをまとめたり、あるいは誰かに説明したりするときは、この“ノイズ”が必要です。しかし、1冊の本を読むという経験を積まなければ、それは養われません。
これはすなわち、思考のできない人材になってしまうことにも通じます。だから、1冊の本を読むという行為を忌避する姿勢に、危機感を抱くのではないでしょうか。
確かに、世界中で見られる近年のポピュリズムの蔓延は、思考を忌避する姿勢と重なります。そして、その姿勢を助長しているのが「読書離れ」であるとする考え方にも、一定の道理を認めることができるでしょう。
技術としての読書
ここで、読書を取り戻すことと働き方に、因果関係はあるのでしょうか。
子どものころには本を読むのに、社会人になると読まなくなるというフレーズはキャッチーですが、おそらく読書体験の本質は、子どもと社会人の間の期間、すなわち10代の読書体験にあると思われます。
絵本から、いきなりビジネス書に転換するには、大きな溝があります。したがって、10代に相応の読書体験を持っていない者が、社会人になっていきなりビジネス書を読もうと思っても、なかなかページが進みません。そしてページが進まないがために、理解もまた、遠のいていきます。
そこで、かつては、組織内で「読書会」を開いたり、指定図書に基づいた小論の提出が、昇進要件だったりしたことが流行りました。おそらく、このような形でも行えば、1冊の本を読むスキルがある程度は身に付き、必要に応じて読むことに躊躇をしない“社会人”が育成されていたのでしょう。
最近は、「人的資本経営」などという言葉が流行っていますが、組織は、結局のところ“現有勢力”で運営するしかないのです。だから、組織メンバーが思考停止に陥るのであれば、それはITを活用することで補うなど、何らかの方法で埋め合わせていきます。
技術としての読書を取り戻す時間は、確かに必要でしょう。なぜなら、読書は技術であり、技術は、獲得するのに一定の時間を必要とするからです。
しかし、それは“余暇”を増やすことで解決されるものではないように思われます。
合理性の中の読書
組織は、合理性に基づいて運営されます。しかし、読書が合理性の埒外にあると捉えるのはどうでしょうか。
一定の合理性を得るために、人は学びます。そして学びでは、必要最低限のものを獲得するような行動が、優先されるでしょう。しかし、やがては1冊の本を読むという学びがなければ得られない”高み”に到達します。
その”高み”に対して、自らが超えようとするのか、誰かに(何かに)超えてもらうのを待つかは、結局、本人の選択でしょう。現在の組織では、どちらを選択しても、それなりの道が用意されているものです。
要するに読書とは、読みたければ読めば良いし、読まないで済ませたいと思うのであれば、その方途を探れば良いとうことでしょう。ただ、脳科学的にも自己が十分に形成されていない10代にあっては、ある程度、読書を強制する必要はあるかもしれませんが…。
組織運営にあたっては、組織メンバーの成長に、どこまでコミットするかという問題となるでしょう。かつてのように、研修という名の下に強制するのも1つの方法ですし、自律を求めるのもまた、1つの方法です。
現在は、後者が優勢であるように見受けられますが、これもまた、組織判断ということになるでしょう。ただ、読書量の減少は、決して、働き方の問題ではないとは思いますが…。
よろしければ、「憧れの管理職になれるリーダーシップ」もご覧ください。