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徒然なる想い その七〜時間の価値づけ〜

 皆さん、明けましておめでとうございます!今年もどうぞ宜しくお願いします。早くも2022年という新しい年を迎え、早くも今年の正月も終わろうとしています。光陰矢のごとしという諺が示す通り、時の流れは本当に早いものだと感じています。

 さて、年末に高校生時代に書いた日記を久しぶりに読んでいたところ、我ながらふと興味を惹きつけられる内容のものがありました。それは、まさに先ほども述べた時間に関係する内容です。具体的には、私たちは現在というものを認識した気になっているものの、実際は過去の現象を認識しているだけではないかという問題提起です。例えば、昼に私たちが見ている太陽の姿は、約8分前の太陽の姿です。今現在の太陽の姿を見ていると思っていても、実際は過去の太陽の姿を見ているに過ぎません。太陽系外の恒星では更に極端となり、100年以上前の恒星の姿を見ているなんてことは当たり前です。これは光速度不変の原理から避けられないことであり、全ての光は定数 $${c=2.99792\times 10^{8}\!\  m/s}$$ を超えて移動することはできません。光速度が物理定数の一つになっている理由は、まさにここにあります。太陽なんかよりも更に極端な例を出しましょう。私が目の前のMacの画面を見るという動作をする時、画面を目で捉え脳で認識するまで平均して0.2秒(個人差や状態差があります)の時間がかかっています。そう、私が今見ていると思っている画面は正確には0.2秒前の光景でしかありません。これもまた受容器から脳へ神経伝達を行う都合上、決して避けることができません。仮に受容器と脳の情報が一瞬で共有されるという非相対論的な現象が起こってしまえば、それはそれで生物が物理法則を完全に無視した存在になってしまいます。こういう具合に考えて行くと、私たちが現在と思っている現象も、実際は過去の現象でしかないことが分かってきます。かなり極端な言い方をしてしまえば、我々が現在と思っている現象も客観的には全て錯覚でしかありません。何と、我々は錯覚の世界に生きていたのです!

 ……とまあ、高校時代の私は未だ未だ未熟だったため、我々は物理的に錯覚の世界で生きているというところで考察が終わっていました。しかし、今再びこの問題に触れてみると、この考察は絶対時間を暗に認めることにもなるのではないかと思いました。絶対時間とは何ものにも左右されずに存在する時間軸で、また宇宙上のいかなる位置でも一様に流れる時間のことを言います。つまり、客観的な時間軸が存在し、物理現象をその時間軸上で記述できる時、その時間を絶対時間と呼ぶわけです。先ほどの考察では絶対時間上での時間差のみを問題にしており、時間を観測者(我々自身)が定めるという量子論的な考え方や、固有時という相対論的な考えを全て無視した議論に感じるのは私だけではないと思います。例えば、何千光年も離れた惑星に住む生物や、光速度で移動するロケットに乗る人に「そちらの時間は今どうなっていますか?」などと聞くことそのものがナンセンスです。なぜなら、それぞれの座標系に対して固有時が与えられており、今を規定する絶対的な基準が存在しないからです。このような考え方を純粋な物理学の枠を超えて展開して行くと、或る考えに帰着します。それは、そもそも客観的な時間などというものは存在せず、単に主観的な時間しか存在しないというものです。仮に時間が物理的には存在せず、生物の生理的活動によって創られたものであるとすれば、先ほどの錯覚の世界に生きているという主張は却けられます。過去も、現在も、そして未来も客観的なものではなく、単に内的なものでしかないのですから。尤も、時間を実在するものとして認識しているという点では、或る種の錯覚に陥っているとも言えますが。

 絶対時間の考え方を却けると、我々が普段利用している時間という概念は、我々の都合によって人為的に生み出されたものでしかないことになります。そのため、時間とは何かということを掘り下げようとする場合、物理的な視点ではなく、生物学的、或いは心理的な視点が不可欠になってきます。と言うわけで、少しだけ考えてみましょう。先ず、生物学的な視点から時間を考えると、振り子モデルが理想ではないかと思います。どういうことかと言うと、生物の時間は振り子のように周期的な系と見做せるということです。生物には本来生物時計が備わっており、約24時間周期で生理的な機能を調節しています。例えば、夜になると自然に眠くなるのは松果体から分泌されるメラトニンというホルモンの作用に起因し、メラトニンの分泌は生物時計に基づいて調節されています。このように、一日の流れは頭で考えなくとも、生物時計によって体は自然と認識しています。また、一年という長い期間であっても、冬になると自然と冬眠する動物や、特定の季節に渡りを行う鳥がいるように、きちんと認識することができます。従って、生物学的に考えれば、循環する時間というものが存在し、周期的な時間変化こそが時間の起源になることが分かります。勿論、厳密には綺麗に周期的な時間になることはなく、Life History のどの段階にいるかによって周期性も変化します。しかし、近似的に周期的時間と見做せるのが、生物学的時間概念の特徴と言えます。次に、心理的な視点から考えてみると、現在という時間を基準にした直線的な時間が妥当ではないかと思います。つまり、現在という広がりをもった原点に対して、現在より前を過去、現在より先を未来と定義する時間感覚です。これはまさに我々が普段意識している時間感覚であり、先ほどの周期的な生物学的時間概念と違って過去から未来への不可逆な時間変化を示します。このような直線的な時間感覚が生まれる理由としては、ひとえに我々は過去の事象を記憶として把持・想起できるところにあると考えられます。今現在と過去という明確な区分があるからこそ、時間は一方向にしか進まないと考えるわけです。すなわち、海馬と大脳皮質による記憶の把持が直線的時間概念の起源になることが分かります。以上のことをまとめれば、時間が主観的に生み出されると言っても、我々は2種類の時計を持っていることになります。1つ目は時計遺伝子に基づく循環する時計で、これはほとんど全ての生物が持つ比較的古い時計です。2つ目は脳の記憶に基づく直線的な時計で、大脳を進化させた生物が持つ比較的新しい時計です。このように、古いものと新しいものの2種類の時計を以て、我々は時間という概念を作り上げたと言えます。

 今までの議論を整理すると、以下のような結論が得られます。時間という概念は人間が持つ2種類の時計に起源があり、時間というものに本来は物理的実態がない、と。よって、時間はどこまで行っても主観的な概念でしかなく、現代人が時間を行動の基準にしているのもその時間概念を多くの人間間で共有している結果でしかないことが分かります。こう考えてみると、現代人のように時間を異様に気にしながらの生活とは、人間が作り出した概念に人間自身が縛られているとも言える気がします。生理的な意味での時間概念に基づけば一分一秒の離散的な時間感覚は或る意味不自然で、もっと幅のある連続的な時間感覚の方が自然であると思います。従って、時間がない時間がないと一分一秒の時間を気にするよりも、もっと大らかに時間が過去から未来へと進む様子を楽しみたいと思う今日この頃です。勿論、無人島で一人寂しく暮らしているわけでもありませんから、時間を全く無視した生活を送ることもできません。しかし、時間変化を芸術の域にまで昇華させた音楽があるように、時間の変化は決して無慈悲なものでも何でもありません。そんな時間の柔らかい流れを感じるのも楽しいものだと思います。時間が意識(顕在意識、潜在意識の両方を含む)の産物である以上、時間の中身にどれだけの価値づけを持たせられるのかもまた意識次第なのですから。今年はそんなことを意識して過ごしたいなと思います。

 今回も聊か重い内容になってしまいましたが、最後までお付き合い頂き有り難うございます。最後に、音楽に関する言葉として、私が好きな言葉を紹介して筆をおきます。この言葉はモダンジャズ好きな人ならご存じだと思いますが、アルトサックス・フルート・ベースクラリネットの3つの楽器を駆使した Eric Dolphy(エリック・ドルフィー)の LP「Last Date」に収録されている言葉です。音楽に関する言葉ですが、巨視的な意識の流れが不可逆であることを表現しているようにも感じるのは私だけでしょうか。

When you hear music, after it's over, it's gone in the air. 
You can never capture it again.

Eric Dolphy 「Last Date」

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橘井秋霜
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