見出し画像

9/28の日記~宇宙の音、スウィング、逆ジェンガ~

 胸の、みぞおち辺りに凡そ7キロの重りを載せられているような妙な圧迫感があった。上手く呼吸ができない。5分に一回は深呼吸をしてその重りを持ち上げなければ、新しい酸素を肺一杯に供給することができない。沈没した船の、海水でいっぱいになった一室で空気を求めて水面に目と鼻と口だけを突き出す。そんな感覚だ。
 原因は分かっている。先日、2キロもプールで泳ぎ続けたが故の筋肉痛だ。2時間の、2000メートルの平泳ぎが、普段使わない胸の筋肉のある一部分に、乳酸をたまらせただけの話だ。この一か月間のトレーニングによって、身体の変容が如実に現れている。息苦しさと胸の筋肉痛という形でも。それだけは分かる。

「もうすぐドッキングするんだ」神保町のロシア料理店でボルシチとピロシキを頼んだ後に、出し抜けに友人が言った。
「ロケット?」
「そう」ロシアの缶ビールをグラスに注ぎながら、あたりまえじゃないかと微笑んでいる。7対3。理想のバランス。それから、おそらくはアメリカの核兵器が束になったって叶わない美貌の、その頂点たる時期を終えてしまったロシア人が料理を運んでくる。ピロシキ、ボルシチ。赤いスープの上に優雅に浮かぶ生クリーム。
「人を乗せて?」
「いや、人は乗せてない。食料やなんやかんやの物資を載せて地球の周りを猛スピードで飛んでいるんだ。そしてもうすぐ宇宙ステーションにドッキングする」
僕は、ロケットの然るべきパーツが宇宙ステーションの然るべき”窪み”にハマるところを想像した。カチッと音を立ててハマる。

音を立てて?なにをいっているんだ?宇宙には空気がないんだから、音は響かない。

俺の宇宙じゃあ、音は鳴るんだよ、とジョージ・ルーカスが言う。そうかもしれない。

「最近はどうなんだ?」プーチン大統領の顔をペイントしたマトリョーシカをひとしきり観察した後で近況報告会が始まった。相変わらずだよ、と僕は言った。なんだって、そんなわけのわからないペイントをマトリョーシカにしたんだろう。プーチンの中に、ゴルバチョフ、その中にもたくさんの偉大なロシアの指導者たち。彼らが飛び出してコロブチカを歌うところを想像した。下らなかったが、随分と見事な演奏だった。下らないが、心豊かだ。色んな示唆に富んでいる。
 
「光熱費と通信費と社会保険料を払う為に働いて、残りのお金でささやかな趣味を楽しんでいる。筋トレしてるけど、中々痩せられない。この2か月間、たくさんの人に会った。どれも実を結ばない、特に意味もない出会いばかりだった。それから来月からは奨学金の返済が始まる。努力に対して実る果実の大きさはあまりにも小さい」
「フェアじゃない」彼はそう言った。「奨学金な。俺もだよ。大切な給料の何分の1かが消滅してしまう。ボッと。それから、俺は車を買ったからそれのローンで首が回りづらい。火が付く寸前だ。ボッと」
「フェアじゃない」と僕は返した。
「まったく」、彼は言った。

 僕は日常のフェアじゃない事象をいくつか思い出し、そしてその中から、自分から一番遠い距離関係にある、だがその計り知れない影響を僕にもたらす一例を提示した。太陽フレアみたいなね。無責任な不幸自慢みたいだ。

「まったく。それから、ソニーとディズニーにスパイダーマンは引き裂かれた。楽しみにしていた映画はおじゃんだ。拡がり続けるはずのユニバースは分断された」って。
「やれやれ。ソニーとディズニーに引き裂かれる哀れな蜘蛛の子、スパイダーマンに」、そう言って彼はグラスを掲げた。

 こんな風に、僕らはよく小さな不幸自慢を時々した。他人を不幸には巻き込まない程度の。そしてその不幸の小さな渦の中に可能性や希望や夢やなんやかんやを探し出す。ささやかな不幸から脱却するための必要物資を探し出す。フェアじゃない社会を嘆き、そして、そんな社会で生きていくことが多少なり辛くとも。それでも、「辛」の文字にうまく横棒を足して、バランスの良い「幸せ」の字を作ることを懸命に努力し、そしてそれをささやかに楽しんだ。逆ジェンガみたいだ。あのロシア人のウェイターのように僕らの人生のピークがとうの昔に過ぎてしまっていたとしても、バランスが悪くても、それでも笑いながらビールを乾杯するのだ。

「でも、車はいいよ。どこまでも行けそうな気がする」彼はジェームズ・フランコみたいに目尻に小さな皺を刻んで言った。それは、どこか遠くの水平線に浮かぶ一隻のヨットの船名を読み取ろうとするみたいだ。暗示。なにかの暗示。
「結局、なるようにしかならないのさ。ささやかな楽しみを一つ一つ楽しんで、一つ一つ希望を持つしかない。それから努力も少しずつ、少しずつ重ねなければならない。大人、という社会がフェアじゃないとしても」

僕は、彼の言い分を全面的に支持する。なぜなら、僕は筋トレのおかげで実際に少し痩せ、実際に然るべきところに筋肉がついた。ラグビーと女子バレーボールの世界大会で日本はジャイアントキリングを果たした。大好きなボーカルアイドルグループが多幸感あふれる新曲を出し、愛しているバンドのメンバーがデビュー20周年を祝って肩を組んだ。そして何と言っても、今朝、ソニーとディズニーは和解した。

スパイダーマンは、ユニバースを再びスウィングするのだ。

聞こえるだろう?もう少しでドッキングするんだ。カチッと音を立てて。

よろしければお願いします!本や音楽や映画、心を動かしてくれるもののために使います。