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お茶探検-三軒茶屋の由来の地へ-【前編】
こんにちは、りりこです。
少し前、電車に乗っていた時のこと。
車掌さんの「次は三軒茶屋です」という合図を聞いた私は「茶」の文字に反応していました。「そういえば、三軒茶屋ってお茶の字が使われているけれど、何か関係があるのかな」と。気になって調べていると、三軒茶屋には三軒のお茶屋さんがあった様子。今はどうなっているのだろう?そもそもどうしてお茶屋さんがそこに?と謎は積もってゆくばかり。
そこで三軒茶屋に住む友人とともに、由来の地を探検することにしました。
まだ残っている?!三軒のお茶屋さん
「三軒茶屋」の地名は、信楽、角屋、田中屋の三軒のお茶屋に由来します。
三軒のうち一軒は、陶器店「田中屋陶苑」としてまだ残っているという情報をネットで見つけたため、ひとまずそこをめがけて歩くことにしました。
三軒茶屋の地名は、江戸時代に大山道の本道(今の世田谷通り)と近道(今の国道246)の分岐点に信楽(後に石橋楼)、角屋、田中屋の三軒の茶屋があった事に由来します。
(引用:三軒茶屋どっと混む! 三軒茶屋ドットコム 三軒茶屋の歴史より)
地図で見ると大体この辺り(中央にある「十」のところです)!
世田谷通りが黄色い道、国道246が緑の道ですね。
ちなみに迅速測図(明治時代初期から中期にかけて大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部によって作成された簡易地図)を見ると、ありますあります!!
周りは雑木林や畑だったんですね。(後につながります。伏線です!笑)
お茶屋「田中屋」は宿付きのカフェだった
陶器店「田中屋陶苑」に到着!
まずはずっと聞いてみたかったお茶屋さん時代のお話を伺ってみることに。
わたし「お茶屋さんといっても茶葉の販売から喫茶店までいろいろありますが、お茶屋「田中屋」は何をなさっていたのですか」
お店の方「旅籠です。宿屋。一階が喫茶店で、二階が宿屋でした。」
わたし「なぜ宿屋が?」
お店の方「そこの街道(今の世田谷通り)を通って大山に行く人たちの休憩スポットだったんですよ。」
そういえば、事前に調べていたとある記述を思い出し、、、
当時は神奈川県丹沢の大山にある阿夫利神社へ雨乞いに行く大山詣が流行し、文化文政の頃には三軒茶屋という呼称が一般的になっていたそうです。
(引用:三軒茶屋どっと混む! 三軒茶屋ドットコム 三軒茶屋の歴史より)
わたし「ああ!なるほど。そうか、当時の人たちは歩いて移動していたから、泊まったり休んだりするスポットが必要だったんですね。」と納得しました。
電車の出現と信仰心の低下により、業態変更
わたし「お茶屋さんから陶器店に変わったタイミングはいつですか」
お店の方「明治です。」
わたし「なぜ?」
お店の方「電車が走りましたから。あと、近代化でわざわざ山まで登って雨乞いする人が減りましたから。」
わたし「どうして陶器店に?」
お店の方「うちのおじいさんがたまたま瀬戸物屋をやってたから引き継いだという」
他の2軒はこのタイミングでお茶屋(宿付き)とともに商売自体をやめたのだとか。
陶器店「田中屋陶苑」はお茶屋「田中屋」のお庭部分
ちなみに今ある陶器店「田中屋陶苑」はお茶屋「田中」のお庭兼畑部分とのこと。(伏線回収です!)宿泊客もいらっしゃいましたから、相当な量の食材をつくっていたんだと教えてくださいました。
では、お茶屋のあった場所は今一体何があるのだろう。
後編に続きます。
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